平成二十八年四月、大阪・国立文楽劇場は、満員の観客で沸いていた。
六年ぶりに通しで上演された「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」。呂勢太夫が勤めたのは「妹山背山の段」の定高。大判事を勤めた竹本千歳太夫と、舞台と客席を挟んで上手と下手の床に別れ、火花散るような迫力ある語りを繰り広げたのだ。
二人の死にものぐるいの浄瑠璃はそのまま、わが子を犠牲にしなければならなかった二人の親、大判事と定高の苦衷に重なった。
配役を聞いたとき、「うれしい半面、えらいことになった」と思ったという。というのも、「妹山背山の段」は近年、竹本住太夫や竹本源太夫ら人間国宝や、「切り場語り」の称号を持つ重鎮が語る場と決まっていたからだ。
「前回(平成二十二年四月)、住太夫師匠と源太夫師匠が勤められたとき、私は雛鳥で、源太夫師匠の隣にいましたので、どれだけすごい段かということは身に染みてわかっていました。ですから、今回勤めるにあたって、失敗してしまったらどうしよう、自分がすべてをぶち壊すことになるんじゃないか、そう思うと、責任の重さが襲いかかってきたんです」
そんな呂勢太夫に、三味線の人間国宝、鶴澤清治は「目一杯やれ」と檄を飛ばした。「自分の持っているものをすべて出しなさい。明日はないと思ってやるように」と。
呂勢太夫の身中に闘争心が燃え上がった。「向こう(背山)に負けてなるものか、と思いました。お互いにそうだったと思います。この段自体がそういう性格の段ですので、火花散るような浄瑠璃でないとドラマが成り立たない」
数年前から本公演は清治の三味線で語っている。「こんな幸せなことはありません」。緊張の面持ちで語る。「毎日の舞台の密度の濃さといったら。清治師匠が弾いてくださって、ご注意や注文を毎日のようにしてくださる。私は次々来る課題をクリアするだけで精一杯。落ち込んでいる暇もありません。清治師匠がおっしゃっている域に近づくにはどうしたらいいか。考えなければならないこと、直さなければならないことがいっぱいなんです」
若い頃から美声を謳われ、将来を担う存在と期待の太夫だった。いまや中堅世代の実力派として毎公演、大きな段を任せられるまでに。
出身は東京。子供のころ、NHKの人形劇「新八犬伝」を見て人形劇にはまった。両親が「人形劇が好きなら文楽も」と、見に連れていってくれた。「そこで、すっかりはまっちゃったんです」
当初は人形に魅せられたが、開演前の「三番叟」を聞いて、太棹三味線の重厚でリズミカルな音色に引かれ、レコードを買って聞きまくった。「変な子だったんですね」と笑う。
当初は三味線と語りを習っていたが、太夫になりたいと決意が固まり、昭和五十九年、竹本南部太夫に入門した。
「いま振り返れば、子供のころから義太夫節に慣れ親しむことができてよかったと思っています」
南部太夫の死で、その後、豊竹呂太夫、豊竹嶋太夫と、三人の師のもとで学ぶ。「どの師匠もおっしゃったのは情が第一ということです。また、文楽自体がそういう世界ですし、師匠方もそういう生き方をしていらっしゃるんです」
いま、改めて感じるのは、文楽の師弟関係の緊密さだという。だれもが二言目には「師匠が」「師匠が」という。「師匠が私にこうしてくれた」。何十年も昔の思い出話をしながら涙を流す師匠たちの姿を何度も見てきた。「信じられない世界ですよ。決してギブアンドテイクじゃなく、職場だけのおつきあいでもない。その密接な関係性が文楽のいいところじゃないでしょうか」
平成二十九年一月三日開幕の大阪・国立文楽劇場「初春文楽公演」では、幕開きの「寿式三番叟」の翁と、「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)・奥庭狐火(おくにわきつねび)の段」を勤める。
「『三番叟』は私が文楽に入るきっかけになった曲。大勢で勤める義太夫節の合奏の迫力や重厚感を感じていただきたい。『奥庭狐火』は華やかさと幻想性があり、目と耳の両方で味わっていただける曲だと思います」
五十代に入り、いよいよ最前線に。「中身を語れるような太夫にならなきゃいけないですね」
時間が出来ると、骨董店を回って昔の見台や床本を探しに行く。「出会いこそコレクター冥利」
身も心も文楽に取り憑かれた人かもしれない。
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/八木 洋一
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