来年1、2月、東京・歌舞伎座で、高麗屋の当主名である「松本幸四郎」の十代目を襲名する。
「いまはまだ、襲名の準備段階ですので実感はないのですが、幸四郎の名跡を継ぐからには高麗屋の家長としての責任を果たさなければいけないと、思っています」。一言一言、かみしめるように語る。
「若いころから名前を継ぐことを目的にやってきたわけではありません。自分のなかで、『勧進帳』の弁慶を筆頭に憧れのお役があり、それができる体になることを目指してきました。それが松本幸四郎になるということ。襲名を前に思うのは、歌舞伎俳優であることが運命でありたい、という気持ちだけです」
念願の弁慶を初めて演じたのは平成二十六年十一月の歌舞伎座だった。富樫に父、松本幸四郎、義経に叔父、中村吉右衛門と、当代の弁慶役者に囲まれての弁慶。飛び六方の引っ込みまで大きく演じ切り、万雷の拍手を浴びた。「幸四郎」になるための準備は整ったといえる。
歌舞伎の舞台では二枚目を中心に活躍。品のある端正な容姿、バランスのとれたスタイル、素顔の美しさにも定評がある。時代物から世話物、舞踊まで幅広く、古典はもとより、新作歌舞伎や復活狂言にも積極的。『竜馬がゆく』三部作をはじめ、歌舞伎NEXT『阿弖流為(あてるい)』や『大當り伏見の富くじ』…。八月の歌舞伎座では、市川猿之助との弥次郎兵衛・喜多八コンビで、『東海道中膝栗毛 歌舞伎座捕物帖(こびきちょうなぞときばなし)』を上演、新作の可能性を切り拓いてきた。
一昨年と昨年は、最先端テクノロジーを駆使した新作歌舞伎を米ラスベガスで上演。五月には、フィギュアスケートとのコラボレーション「氷艶hyoen2017〜破沙羅〜」を作り上げ、観客を驚かせた。
「幸四郎」という大名跡を襲名すると、これまでのような斬新な新作は創造しなくなるのだろうか。そんな疑問をぶつけてみると、「僕は変わりません」と即答。
「よく、『襲名したら、古典歌舞伎だけやっていくんですか』と聞かれるのですが、もしそうなら、自分がいままでやってきたことは全部無駄になるということ。幸四郎になったからといって、生き方が変わるわけじゃない。これからも変わらず挑戦し続けます」
江戸歌舞伎の名門、高麗屋の跡継ぎとして生まれ、周囲の期待を一身に浴び、順風満帆に歌舞伎の王道を歩んできた。ところが、「十代の成長期のころ、歌舞伎をやめたいと思ったことがあった」と打ち明ける。
歌舞伎俳優は子役から大人の役への過渡期、声変わりなどもあり、いったん役がつかなくなる。「自分は向いていないんじゃないか、歌舞伎俳優として何もできないんじゃないかと思ったのです。憧れのお役と自分の力の間に差があると思ったし、歌舞伎というものに偉大な憧れの念を抱いているがゆえに、やめた方がいいんじゃないかと思いつめました」
「もうやめよう」。そう決意して父にも告げた。
ちょうどそんなとき、ある舞台に出会う。野田秀樹作・演出の『贋作・桜の森の満開の下』。衝撃を受けた。「舞台ってすごいと思った。生の人間のパワーにも感動しました。そのとき、歌舞伎を続けていこうと決心したんです」
八月、歌舞伎座で、その『野田版 桜の森の満開の下』にオオアマの役で出演した。「勝手に運命を感じています」
来年一月の襲名披露公演は、高麗屋三代の同時襲名となる。父・幸四郎が二代目松本白鸚に、長男の松本金太郎が八代目市川染五郎を襲名。昭和五十六年にも同じく高麗屋三代の襲名が行われ社会的なニュースとなった。「二代続いて三代同時襲名が実現する。しかも全員現役というのは本当に大変なこと」と、感無量の表情を見せた。
「父の持論は、『歌舞伎俳優は何でもやらなくていいけど、何でもできなくちゃいけない』。ですから僕の中でも、『歌舞伎俳優だからできません』という答えはあり得ない。これからも、やるかやらないか、という時、やることを選ぶ決断をしていきたい」
高麗屋の進取の気性は間違いなく染五郎の体内に血となって流れている。
幸四郎になって、何がやれるのかを自らに問うている。「言えるのは、歌舞伎にこだわり続ける、ということ。ラスベガスで公演するのも、フィギュアスケートとコラボするのも、歌舞伎の力や演出のすごさを信じているからです。世界中の人たちに歌舞伎を知ってもらいたい。外国人がやってもいい。でも、本物の歌舞伎が見たいのなら、日本に来て僕たちの舞台を見てほしい」
歌舞伎の未来に向かって夢は果てしなく広がる。
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/八木 洋一
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