平成三十年一月、国立文楽劇場(大阪市中央区)の「初春文楽公演」で、師・豊竹咲太夫の父、八代目竹本綱太夫の前名を継いで、竹本織太夫の六代目を襲名する。
「師匠の親心をありがたく感じています」と神妙に語る。
「僕が目指してきた芸は、師匠の師である豊竹山城少掾の系統であり、心酔しているのは、山城少掾の弟子の八代目綱太夫師匠の芸です。その綱太夫師匠の前名を襲名させていただき、織太夫としてその芸を継承し、後世に伝える。大切なバトンを受け取ったと思っています」
そう言って、真新しい羽織についた綱太夫の紋『抱き柏に隅立て四つ目』を見つめた。人形浄瑠璃文楽座で現在、この紋をつけている技芸員はただひとり。その誇りと重みを痛感している。「綱太夫師匠の前名の織太夫を襲名するからには、綱太夫という家の味、つまり芸風を守っていかねばならない。今後はもっと、がむしゃらに、信じた芸や道に邁進していく。この紋に恥ずかしくない芸を磨かなければならないと、責任を感じています」
祖父は文楽三味線の二代目鶴澤道八。大阪市内のど真ん中に生まれ、子供の頃から浄瑠璃を聞いて育った。
咲太夫に入門したのは、八歳のとき。若いころから次代を担う太夫として周囲の期待を一身に集めてきた。
豊かな声量、輪郭の大きな語り、繊細な感受性に芝居心もあり、現代を見る目は鋭い。真っ向勝負の骨太の語りは、四十代に入り、襲名を機に、大輪の芸の花を咲かせようとしている。
古典の修業はもちろんだが、他分野とのコラボレーションなどで浄瑠璃の可能性と深さを追求。現在も、日本語の美しさや古典芸能の楽しさを伝えるテレビ番組『にほんごであそぼ』(NHK Eテレ)にレギュラー出演し、国立文楽劇場近くの高津小学校の文楽学習で義太夫を教えるなど、文楽の普及にも意欲的。入門書を出版するなど多才ぶりがうかがえる。
近年、大きな役が増えている。精魂込めて語り切った『志渡寺』や、『夏祭浪花鑑』の主人公、団七九郎兵衛…。そして、『仮名手本忠臣蔵』では、「七段目」の寺岡平右衛門を勤め、強烈な印象を残した。通常、義太夫節を語る床は舞台上手にあるが、「七段目」に限っては、平右衛門を勤める太夫だけ、下手にたったひとり座って、無本(見台も床本もなし)で語る。大きな役であると同時に、目立つことこの上ない。
このとき平右衛門の人形を遣ったのは、人形遣いの第一人者、桐竹勘十郎。妹おかるを思いやる情と、討ち入りに参加したいと逸る気持ちが人形の演技と相まって、迫力ある語りからあふれ出ていた。
「ありがたいのは、文楽の太夫なら、一度は語ってみたいと思うような役がついていることです。翌月、自分が語る段を、『ああ、子供のころ、憧れていた段やなあ』と、感慨深く思うときがあります」。そんな話をするときは、少年のように無邪気な笑顔になる。
いま、浄瑠璃を語る上で心がけていることは、語りの技術を磨くこと。
「初代綱太夫は語りの技術がすごくて、“わざ知り”(今日でいう技巧派)と言われたそうです。あとは、(三味線の鶴澤)清治師匠もよくおっしゃる切っ先の鋭さですね。車でいうと、馬力があってターボが効き、長時間安定していてブレーキも効く。語りにおける切っ先とはそういうものだと思うんです。そのためには徹底的に技術を磨くことを自分に課したいですね」
襲名披露の曲は『摂州合邦辻』より「合邦住家の段」。義理の息子、俊徳丸に邪恋をしかけた後室、玉手御前の真意を描く人気作。師・咲太夫が前半、自身が後半と、師弟で一段を語り分ける。
「僕の浄瑠璃を聞いてくださった方が、二十年後も、三十年後も思い出して、『あのときの織太夫の語りはよかったなあ』と言ってもらえるような舞台を目指したい」
語り終わったら、ふらふらでご飯も食べられない。それぐらい全身全霊を込めてその日の舞台を勤める。浄瑠璃とは、そういう芸だという。
「自分の身を捨て、舞台にすべてを捧げることによって舞台を生かす。そういう舞台を勤めることで、ひとりでも多くのお客さんに文楽を好きになってもらいたいですね」
幼き日、浄瑠璃に魅せられた少年は、いまもより深く魅せられ続けている。
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/八木 洋一
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