いま、能楽界でもっとも多忙なひとり、と言われている。
十一月に還暦を迎える。能楽師として脂の乗った年代であり、当然、演能の回数も多い。その上に、本拠地の東京と、関西の本拠地である大阪を行き来しながら、舞台、弟子の稽古、実技指導、能楽の普及活動など、さまざまな仕事を行っている。
「まるで回遊魚ですね。止まると死んでしまうみたいな」とおおらかな笑顔。多いときは、一週間に四度、新幹線で東京と大阪を往復するというから多忙を極める日々であることに間違いはない。
「スケジュールが空いていると埋めなくちゃ、と強迫観念のように思う性質なんです。ただ、還暦は、気持ちの上ではゼロ歳。生まれ変わりの年だと思えば、これから新しいことがいろいろできると思っています」
能楽シテ方宝生流の実力派。堂々とした体格と佇まい、重厚かつ華麗な謡、風格ある舞で、古格を守り続ける宝生流の一翼を担う。東京、大阪、京都の三都市で毎年一回、順番に自主公演「満次郎の会」を行い、大曲に臨む一方、新作能「マクベス」や「六条」を手がけるなど進取の気性にも富む。
「私は宝生流のやり方が好きなんです。確かに、芸風として派手さはなく手堅い。いまの世の中の流行とは逆かもしれません。でも、潔さがあって、しかも容易ではないところがすごいと思う。やり甲斐があります」
生まれは神戸。「いまは大きいですが、二千三百cの未熟児で生まれたんです。幼い頃は泣き虫でした」。三歳で、父、辰巳孝に師事し、四歳で初舞台。大阪府寝屋川市の香里能楽堂の建設とともに当地に移った。東京芸術大学に入学、東京で宝生流十八世宗家、宝生英雄の内弟子となり、昭和六十一年、独立。
「子どもの頃は、能が好きだとか、嫌だとかではなく、気が付くと能の世界に入っていたという感じでしょうか」
稽古を受けるのがありがたいと思うようになったのは高校生のときだった。
「私は次男でしたので、父は、能を続けなくてもいいぐらいに思っていたようです。でも、その頃から、能のおもしろさが、未熟ながらわかってきたんです」
そのおもしろさとは、「能面の深遠な魅力」であり、「能の伝統的だが、アバンギャルドな演出」だった。
内弟子生活は厳しかった。内弟子のなかで一番年下だったときは雑用に追いかけられる日々。「ある意味、軍隊でした」と振り返る。「ただ、日常生活のなかで、家元や先輩方が欲していらっしゃることを機転をきかせて先回りして実行する。そういうことすべてが修業につながった。能の修業とは生活も含めてのこと。内弟子時代は、集中してさまざまなことを吸収できる時期であり、人間としての土台を作っていただけたと感謝しています」
五年前、イスラエルのエルサレムにある「嘆きの壁」の前で、世界の平和を祈って創作能を舞った。観客は誰もいない。それでも、「平和のために、日本の伝統的な文化である能を舞えてよかったと思っています。能には鎮魂や祈りなどの思いが込められる。そういう意味でも国や民族を越えた普遍的な芸術ではないでしょうか」としみじみ語る。
東京を本拠に活動しているが、大阪での本拠地、香里能楽堂での演能を大切にしている。祖父の辰巳孝一郎が興した関西唯一の宝生流の定期能「七宝会」を継承し主宰、自ら出演もする。十一月十五日に同能楽堂で開催される「七宝会普及公演」では「絃上」を勤め、十一月二十三日には大阪府堺市の大仙公園の日本庭園を舞台に新作能「マクベス」を上演する。
そんな多忙な満次郎がいま、考えているのは、全国の能楽堂のネットワーク作りだ。きっかけは、香里能楽堂の近くを通る京阪電車の高架化計画が持ち上がり、立ち退き問題が起こったこと。
「能楽堂を移転するか、どうすべきか、いろいろ考えているところです。ただ、現代において、能楽堂を個人が経営するのは非常に難しい。全国に能楽堂はおよそ八十ありますが、これからの時代の能楽堂の運営など、ネットワークを作って、みなで考えていければ」
そのためには、能楽堂を使っての地域の社会貢献などにも、さらに取り組んでいきたいと表情を引き締める。
令和の時代の能のあり方を考え、来るべき未来のために、能を発信する。その発想力と実行力に期待がかかる。
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/後藤 鐵郎
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