今年、人間国宝に認定されることが発表された。祖父の三世千作、父の四世千作に続き、直系三代での認定となる。
「文化庁からお電話をいただいたとき、まさか私が…と本当に信じられませんでした」
そこからが喜劇の狂言を生業とする茂山家らしい。
「家内が帰ってきましてね、こういう電話があったんやけど、と話すと、『そんなことあるわけないやん』『そやなあ』と、二人で話してたんですよ。それぐらいびっくりしました」と破顔一笑。まことに、あけっぴろげで親しみやすい人間国宝である。
とはいうものの、狂言における卓越した技量、繊細さとおおらかさが同居する確かな演技で、孫のような少女に恋をした老人から、狂言には欠かせない庶民の代表の太郎冠者、風流を解せない田舎大名など多彩な登場人物を見事に体現し、人間賛歌ともいうべき舞台を作り上げる。
三月、京都の金剛能楽堂で行われた「茂山狂言会」では、喜寿記念として、狂言の「三老曲」のひとつ、「庵梅(いおりのうめ)」の老尼を勤めた。老尼の庵の梅が盛りとなり、女たちが訪ねてきて和歌を詠む。やがて酒宴となり、老尼と女たちが謡い舞い─という展開。ほのぼのとした抒情性の感じられる作品だ。
通常、老尼は面(おもて)をかけて演じるものだが、このとき、七五三はあえて面をかけず、素顔の「直面(ひためん)」で演じた。
「お客さまが喜んでいただけたのがよく見えて、うれしかったですね」
面をかけずとも、老尼の心情が伝わる。それが芸の力というものであろう。舞いながらお尻を振る場面では年老いてもどこかに残る女の色気がほの見え、なんとも微笑ましかったものである。
今回の人間国宝認定には、心中複雑な思いもあったという。七五三は先代千作の次男。兄の五世千作は令和元年九月、七十四歳ですい臓がんで亡くなった。
「本来なら、兄がいただいていたかもしれなかったと思うと…」と言葉を詰まらせた。
子供の頃から仲のいい兄弟だった。
「2歳違いでしたので、ずっと一緒にお稽古してきました。兄が高校生、私が中学生のとき、母が亡くなって、それから兄が僕のめんどうをずっと見てくれていたんですよ」
当時、狂言界はいまほど隆盛ではなく、狂言だけでは食べていけない時代。家業を継ぐのは長男だけ、次男以下はサラリーマンや他の道に進むことが多かったという。茂山家も例外ではなく、長男の五世千作は跡継ぎとして狂言に専念できたが、次男の七五三は大学卒業後、京都中央信用金庫に就職、平日は信金マン、土日は狂言師という「二足のわらじ」生活が十八年も続いた。
「確かに多忙でしたねえ。平日の夜は稽古ですから休みはほとんどありません。若かったから出来たのでしょう」と振り返る。
「それに、子供の頃から、祖母や父に『あんたは兄を助けるために生まれたんと一緒やから』と言われ、そういうもんやと思っていました。狂言に専念したいという気持ちはありましたが、兄に対してはサポートしてあげたいという思いだけでしたね」
転機は四十歳のときだった。サラリーマンをやめ、狂言一本に打ち込む決意をする。
「自分のためというより、子供たちが大曲『釣狐』を披くとき、全力で、きちんと教えなければいけないと思ったのです」。兄も「帰ってこい」と声をかけてくれた。
その兄、五世千作は、病床で最期まで、「型、わかってるか」「ちゃんと覚えてるか」と大曲に臨む弟を心配し続けたという。
「だからこそ、今回の認定は、茂山家の芸を三代に渡って選んでいただけたことがありがたく、後に続く若い人たちが舞台をより大切に勤めてくれるひとつのきっかけになるんじゃないかと思っています」
茂山家の家風は「お豆腐主義」。料理次第でごちそうにもなれば、家庭の食卓にも上がる豆腐のように、誰からも喜ばれる芸である。そして、もう一つ、「どんなことがあっても稽古だけはちゃんとしておけ。何があっても崩れるような芸はするな」ということ。これがお豆腐主義の根底にあるものだという。
いっときは「月見座頭(つきみざとう)」や「武悪(ぶあく)」など一筋縄でいかないような狂言に引かれた。だが、いまはもう一度、個性豊かなさまざまな太郎冠者を演じたいという。
「みなさんに喜んでいただいて、七五三さんの舞台見てよかったなあ、おもしろかったなあ、とほっこりした気持ちになっていただけるような舞台をこれからも作っていきたいですね」
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/後藤 鐵郎
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