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吉田玉男

KENSYO vol.131
吉田 玉男
Tamao  Yoshida




吉田 玉男(よしだ たまお)
1953年10月6日大阪に生まれる。1968年初代吉田玉男に入門し、玉女と名乗る。翌年4月、大阪朝日座で初舞台。若手のホープとして活躍。2015年二代目吉田玉男を襲名。 2013年日本芸術院賞、2017年大阪文化祭賞優秀賞、2019年紫綬褒章、2023年松尾芸能賞優秀賞ほか多数受賞。同年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定 。 著書『文楽をゆく』(小学館)、桐竹勘十郎氏との共著に『文楽へようこそ』(小学館)がある。


人間国宝 認定 ─さらなる高みへ

 令和五年、「人間国宝」に認定された。その記者会見では「もちろん、ありがたいですし、本当にうれしかったのですが、最初、電話で知らせをいただいたときは、えっ、まさか、まさか、という感じで、なかなか信じられませんでした」と率直に語り、謙虚で誠実な人柄を感じさせた。
 近年の芸の充実を見ていれば、誰もが納得の認定であろう。
 知らせを受け、師、初代吉田玉男の月命日に墓参りをして報告した。「『よかったなあ、これからも頑張るんやで』という師匠の声が聞こえてくるようでした。若いときに実の父親を亡くした僕にとって師匠は父親代わりだったのです」
 文楽人形遣いの第一人者。立役遣いとして、時代物、世話物問わず、舞台での存在感は圧倒的だ。
 なかでも、悲劇的な運命を背負った時代物の主人公はこの人の真骨頂。文楽の主役中の主役といわれる「仮名手本忠臣蔵」の大星由良助では、仇討ちを成し遂げる胆力と知力や懐の深さを重厚な演技で表現。「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の菅丞相の品格と憂い、自身の襲名披露演目でもあった「熊谷陣屋(くまがいじんや)」の熊谷直実では忠義のため、十六歳のわが子を身替りにして自ら討たねばならなかった武将の苦衷を体現してみせた。
 輪郭の大きな演技に深い内面描写が相まって、いま、玉男の演技は文楽の大きな力となっている。
 「何度も演じてきた役であっても、浄瑠璃の詞章が頭に入っていても、配役が決まったら床本を読み直します。立て稽古では浄瑠璃をよく聞いて、人形をどう動かせばいいか、いろいろ考えるようにしています。それは師匠がいつもやっておられたことでしたから」
 日頃の地道な努力の積み重ねがあったからこそ、いまのような芸境に至ったのであろう。
 玉男は文楽の家に生まれ育ったわけではない。大阪府八尾市出身。中学二年生のとき、近所に住んでいた人形遣いから「文楽にアルバイトに来ないか」と誘われる。当時の文楽の本拠地、朝日座で時代物の大曲「絵本太功記(えほんたいこうき)」が通しで上演されることになったが、人形遣いの人数が足りない。そこで、動かない人形の足遣いや雑用係にと声がかかったのだ。
 放課後、朝日座に行ってみると、同じような年頃の少年がほかに三人いた。そのうちの一人が玉男の一学年上で、以降、数十年にわたって切磋琢磨しながらライバルとなっていく三代目桐竹勘十郎であった。
 歴史が好きだった玉男は、文楽で描かれている世界に興味を持った。文楽には源平の合戦や乙巳の変、戦国時代など史実をもとにした作品が多い。「あの事件が文楽ではこんなふうに描かれんや」。玉男には何もかもが新鮮だった。
 中学卒業後、後に人間国宝となる初代玉男に入門。初代は品格ある遣いぶりで、あまり動かない役どころを得意としていた。当然、玉男も長時間じっとしている足を遣う。ところが、一足先に入門していた勘十郎は、よく動く人形を得意としていた父、二代目勘十郎の足を遣うことが多く、足遣いも目立つ活躍をする。玉男には勘十郎の活躍がまぶしく見えた。
 そんな玉男に初代は「動けへん足を遣えたら、どんな足でも遣えるようになるんやで」と諭したという。
 「確かに師匠のおっしゃったとおりなんです。足遣いはすべての基本。そういう足を遣わせていただいた師匠に感謝しています」
 いま、現役の文楽人形遣いの人間国宝は、吉田和生と勘十郎、そして玉男の三人。年齢は少し違うが、ほぼ同時期に文楽の世界に入った同志でもある。
 「それぞれ芸風も個性も違う。でもいろいろ打ち合わせしなくても舞台では阿吽の呼吸で分かり合えるんです」
 令和六年一月三日初日の大阪・国立文楽劇場「文楽初春公演」では、近松門左衛門・作「平家女護島(へいけにょごのしま)・鬼界が島の段(きかいがしまのだん)」 の主人公、俊寛僧都を遣う。平安末期、平家打倒の陰謀がばれ、絶海の孤島に流された俊寛。その究極の決断や孤独を描いた作品で、精神性の高い演技が必要とされる難役でもある。
 「特に最初の出(登場の場面)が難しいですね。島で長く暮らしているのであまり元気に遣ってはいけない。でも、老人ではないので、ヨボヨボした感じでもいけない。その上で俊寛の孤独や絶望を表現しないといけません」
 いまも、どんな役を勤めるときでも、先代の舞台は目に焼き付いている。
 「すごかったなあと憧れの気持ちはあります。でも、だからといって、まねるだけではだめだと思うのです。これからは自分なりの研究を重ね、二代目玉男の芸というのを作り上げていきたい」
 さらなる高みへと向かう覚悟だ。


インタビュー・文/亀岡 典子



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