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KENSYO vol.45
観世流シテ方
梅若万三郎
MANZABURO UMEWAKA
「能は汲めども
尽きない泉のよう」
梅若万三郎(うめわか まんざぶろう)
観世流シテ方。1941年生まれ。二世梅若万三郎に師事。'44年「老松」の仕舞で初舞台。'48年「合浦」で初シテ、以来老女もの以外の大曲、難曲を全て完演。'67年第一回「日本能楽団」(団長二世梅若万三郎)欧州公演に参加、以後ほぼ毎年様々な国で公演を行ない、'99〜'00年ドイツ・ベルリンでの「ドイツにおける日本年」では1年を通して様々な能を紹介する。'97年十三世梅若万三郎七回忌追善能大阪公演『卒都婆小町 一度之次第』で三度目の大阪文化祭本賞を受賞。

 昨年(平成十三年)秋、十一月二十三日、梅若万紀夫さんは襲名記念能で『姨捨』を舞い、この日を期して三世梅若万三郎を名乗ることとなった。
「ご襲名の折は、歌舞伎のように口上など、なさいませんのでしょうか」の問いに、
「能は地味でして、そういう事はしません」とダンディで知的な笑顔。
 今年(平成十四年)四月、六月、九月、十月、国立能楽堂にて。十一月は大阪公演、大阪能楽会館で。また特別公演として十二月、国立能楽堂で。昨秋に始まり一年がかりで、同門を中心とした錚々たる能楽師、また狂言師の出演で三世万三郎さんの襲名を寿ぐ。たっぷりと日時をかけた一同の舞台への取り組みは、万三郎の名前がいかに大きく貴重なものであるかを示している。
 万三郎さんは昭和十六年二月十一日、建国記念日の生まれ。当時、この日は紀元節と称されており、祖父君初世万三郎の孫として、父君二世万三郎の長男として「万」に「紀」を重ね万紀夫と名づけられた。
 梅若家は、もともと京都市の北西部、丹波は殿田の豪族であった。六〇〇年程前、世阿弥が能の基礎を構築した頃、丹波には丹波猿楽があり、この地を中心に演能グループとして活躍していた、と伝えられる。現在は、東京を拠点に全国各地、世界で活躍している。
 万三郎さんは三歳『老松』で初舞台。十四歳『翁』にて初面。稽古はもの心つくかつかぬかで自然に始まった。能が好きだった。父君の稽古はきびしかった。日常も正座の端然としたたたずまいで近づきがたい風格があった。一方、子ぼんのう振りも発揮された。小学校の時、日光への修学旅行。上野駅まで送ってきた父君はそのまま一緒に汽車に乗って付いて行った。羞かしかったが今ではやさしい思い出のひとこまである。中学校の修学旅行は舞台があり行けなかった。この時はトイレでこっそり泣いた。舞台の日は授業を早退する事もあり友達にズル休みと見られるのも辛かった。しかし、能をやる事に迷いはなかった。小学校から大学まで成城学園。二十歳になると、父君のまなざしにはやさしさが増し、舞台その都度、適切な助言をされるというふうになっていった。
 そうして万三郎さんは能を自身の個性において追求し、自分の能を構築していく。感覚に合わぬ曲は請われてもはっきり断わる。
「つっぱりかもしれませんが」自分の個性がどれだけ生かされるかが重要な基準。たとえ一歩二歩のわずかな違いでも、前回とは異なるその時そのものを演じたい。例えば、近々演じる為に稽古をしていて気づいたのが『屋島』の弓流しのところ、扇を落とす場面。囃子との間。落とす一瞬、その前後の心象風景。伴う動作。何度やっても汲めども尽きない曲の深さに迫り、且つその時だけのものを汲みあげる。「曲の解釈」といった表層のもうひとつ底にあるものを見つめる。そして折々、面や装束の印象の変化を取り入れる。こうして万三郎さんの自分の能は、時分の能でありつづける。
 万三郎さんの能への情熱は三十代からこんにちまで、ヨーロッパ、アメリカ、カナダをはじめ中東、アジア、能楽界初のモスクワ公演と世界にはばたいていく。海外で能は多くは前衛的な演劇とみなされ、言語をのりこえて人々は心をゆさぶられ時に涙して拍手を送ってくれる。ミュンヘンでのこと。万三郎さんの『昭君』を見て、終演後泣きながら楽屋を訪ねてきたその人は、日本でも『モモ』の作者として知られるミヒャエル・エンデ氏。氏が来日された時から万三郎さんとは旧知の仲。『昭君』は中国の物語。漢王の命令で娘昭君を胡王に差し出した後の老父母の嘆き。娘が植えた柳の片枝が枯れ娘の死を悟り、涙に暮れつつ故事に倣い形見の柳を鏡に映すと娘の霊、胡王の霊が現れる。鏡の中の幽魂の世界を演じる万三郎さんの舞台に、エンデ氏が見たものはあの世とこの世を超えた魂のゆきかい、哀しみ、美しさであったろうか。エンデ氏は、ゆきづまったヨーロッパの演劇の打開策をこの能に見いだした、と賞賛した。
 エンデ氏のような、その日その時の何かを感じる事のできる感受性。一言一句が分かるとか分からないとかの狭い範疇でなく、鮮やかにその時を感じる事のできる能。万三郎さんが長年、自らに求めてきたものであろう。そこには、これからの若い世代の感性にも通じる広さ豊かさがある。
 襲名記念能。『姨捨』。万三郎さん自身、「まだ、それほど老いの年齢ではないので」祖父君、父君が演じた「老い」を強調した表現とは別な、魂が月光に溶け入り同化していく世界を演じるという。その夜の月の光を共有するひととき。また、約三十余年ぶりに舞うという『道成寺』。万三郎さんの心模様にじかに触れるひととき。楽しみである。


インタビュー・文/ひらの りょうこ 撮影/八木 洋一
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