KENSYO>能狂言インタビュー バックナンバー

野村 小三郎
KENSYO vol.70
和泉流狂言方 
野村 小三郎
KOSABURO NOMURA

日本と世界をつなぐ
狂言方の鎹(かすがい)でありたい

野村小三郎(のむら こさぶろう

和泉流狂言方。1971年生まれ。父・十二世野村又三郎に師事。1976年『靭猿』で初舞台。東京藝術大学音楽学部邦楽科卒。これまでに『三番叟』『釣狐』『花子』等を披く。1996年『金岡』の披きで四世野村小三郎の名跡を継承。2005年【愛・地球博】では創作舞踊狂言の脚本・演出・主演を勤める等、名古屋能楽界の次世代を担う若手として多方面で活躍。2005年名古屋芸術祭賞受賞。愛知県立芸術大学非常勤講師。

 野村小三郎さんが父君、十二世野村又三郎さんの訃報を受けたのは東京は国立能楽堂の楽屋であった。父君の病状を案じながらの新作狂言『夢てふものは』に出演中の初日であった。「親の死に目に会えない、というのは役者ならこそやね」。共演の大蔵流狂言役者の茂山千之丞さんの言葉を後に知った。他家の先輩からのそんな優しい言葉に「有り難いと思いました」。明日の舞台も頑張って勤めようと決心をする小三郎さんに「何をやってるんだ。直ぐに帰りなさい。」と囃子方葛野流大鼓方の亀井忠雄さんが静かに、しかし心に響く強さで叱り、森田流笛方でこの舞台の作者の帆足正規さんは「待っています」といってくれた。小三郎さんは名古屋に戻り葬儀の段取りをすませ、東京へ取ってかえした。先輩方のあの言葉がなければ、名古屋へも東京へも戻れなかった。同じ能楽界とはいえ流儀や家や役割の垣根をとっぱらったそれぞれの方の情が小三郎さんの胸を搏(う)った。
 父君はいぶし銀の品格を持つ人であった。主役よりむしろ脇役を好み、シテを支えて且つ舞台の位を高めることのできる人。舞の美しさ、また謡でも定評があった。俗世間にはまったく無関心、無欲、無心の人であった。八十六歳の往生であった。
 野村又三郎家は、初代は丹後宮津の郷土、細川家に仕えた。のちに京都は御所西に住まいし禁裏御用を勤める。御所東には茂山千五郎家があった。一七一三(正徳三年)に三世が徳川尾張藩のお抱えとなる。維新で大阪へ、のち東京での活動を経て名古屋に定着する。小三郎さんは父君が五十歳の時の子であった。孫のように愛された。学校は好き、素直で朗らかな小三郎さんであった。父君は遅くに戻ってきても、もう寝ている小三郎さんを起こし一緒に風呂に入った。父との入浴が狂言の稽古であった。稽古は一度も厭だとは思わなかった。手を挙げられたことは一度もない「アメとムチ」ならぬ「アメとアメ」の楽しい毎日だった。中学に進む前、それはある冬のことであった。小三郎さんはふと、楽屋の上座で父の横に座る自分に違和感を覚えた。見廻すと親が師匠格であってもその子やまた弟子、書生たちはしんしんと冷える廊下に端然と座していた。「あ、ぼくは、あっちに行かなければ」。小三郎さんは立ち、敷居を跨ぎ廊下に出て座った。師匠たちはみな当然、という表情であった。先人たちはこうして小三郎さんに、師礼を尽くし、心から教えを乞う舞台人の厳しさを教えてくれた。
 東京藝術大学へ進む時、父君は最初は反対で、高校の夏休みにはバンクーバーへのホームステイを勧め、視野をひろげなさいといってくれたお母様は賛成。でも、父君も最後は賛成してくれた。大学では、和泉流野村萬、万作の両師にじっくり狂言を学んだ、萬先生には狂言の理論を、万作先生には技術や型を習った。また観世流の謡も稽古した。そうして名古屋に戻った。東京で六年、学んだことを糧に、父が伝えようとしてきた又三郎家の芸を守り、この名古屋から発信していくこれからの時代の芸をめざした。東京で出会った同世代、書生たちの師に仕え、必死で芸を盗み学びとろうとしている姿を間近かに見て「今まで自分は稽古はしてきたが、修業はしていなかった」と気づいた。人との出会いを大切にし、互いに謙虚に学び、素直に教え合う姿勢を打ち建てていく。小三郎さんの温かな人柄は、長男の小学二年生の信朗くんや妹の小夜子ちゃんの成長とともにふくらんでいくのであった。
 和泉流三派(山脇、三宅、野村)の中でも野村派の狂言の台本(和泉流では六儀(りくぎ)という)は独特で、台詞の行間が多く、振幅も広く、主語がなく、言葉がぼかしてあったり、いわば骨子だけの難解なもの。省略されたところには独自性も可能な振幅度がある、ということでそれを勉強するのが面白い、と小三郎さんはいう。代々、又三郎家やその周りには知的で芸のレベルの高い人たちが多くいたということだろうか。
 しかし、小三郎さんは、家によって違いはあっても互いの主張を認め、把握した上で、頭を下げて学びたい、とりわけ同世代の役者たちと切磋琢磨していきたいと今、そのことに情熱を燃やしている。和泉流内はもとより大蔵流諸家とも仲良くしていきたいと考えている。
「大阪へ招かれたことは嬉しく有り難い」
 フェスティバル狂言では茂山千五郎家、善竹忠一郎家、野村万蔵家、そして野村又三郎家の四家が織り成す狂言の坩堝(るつぼ)となろう。新しい時代を予感させる華麗なる命の火花が舞台と見所にあふれるだろう。『舟渡聟』では萬さん、万蔵さんと、小三郎さんの共演。役柄が少しく謎めき、あっと驚き、最後はめでたく謡う、和泉流ならではの物語が楽しみだ。
 小三郎さんの座右の銘は「鎹(かすがい)」。親と子、師と弟子、舞台と見所、当家と他家、日本と世界をつなぐ狂言方の鎹でありたいと願っている。

インタビュー・文/ひらの りょうこ 撮影/八木 洋一

ページTOPへ
HOME


Copyright(C) 1991-2008 SECTOR88 All Right Reserved. 内容を無断転用することは、著作権法上禁じられています。
セクターエイティエイト サイトマップ