粟谷家はもとは広島藩浅野家のお抱えの家柄であったが、能夫氏の祖父にあたる益二郎が十四世宗家・喜多六平太に認められて上京。4人の息子たち(故・新太郎、故・菊生(人間国宝)、辰三、幸雄)が大正・昭和の喜多流を支え、現在、能夫氏ら孫の世代へと受け継がれている。 ―会報誌やホームページ上でエッセイを出されるなど色々な情報を発信されていますね。
内で考えていることはあまり出したくないということや自分の気持ちとは違うように判断されるんじゃないかという怖さはすごくあるんですけれども、みなさんの観賞の少しの手助けというか、情報というか、師匠からの教えを少し示したいなというのがありました。そうやって世に出すということは、能を舞うってこととある意味同じような作業に思います。いろいろ勉強しなくちゃいけないですしね、書こうと思えば。 ―刺激や影響をうけられた方は? 我々の時代では観世寿夫(ひさお)さん(※1)という方がいましてね。憧れましたし、舞台を観て感動もしました。能というのはね、能の上に流儀があるんじゃなくて、能の下に流儀があると僕は思ってるんですよ。ですから流儀や能にもこだわらずにいろんな舞台、その頃(20歳代前半)はアングラ全盛で、早稲田小劇場や転形劇場(太田省吾)、錬肉工房(岡本章)など、ライブを見て、涙を流す、笑う、感動する…、そういうことがすごく好きだったですね。ただ、矛盾するかもしれないけども「お能第一」っていうのはすごくありました。僕は子どもの時から「お能ごっこ」をするほど、能が大好きで反発するようなことが一切なかったんですよ。そういうのがありまして、他流のものも見てみたい、一体どういうことをやっているのか、と。 ―小さい頃の記憶は? うちのじいちゃん(益二郎)に子方の謡とかの稽古をしていただいてたっていうのはすごく印象に残っています。父の稽古では怒られて泣いたりもしましたけれども、芸に対することであって、自覚はないんだけれども、怒られるってことはこっちがいけないんだな、と思いました。 ―師匠が十五世宗家の実氏にかわって、お父様とは違いましたか? そういうことはないんですけれども、例えば子方の謡を父がうっかりして後半の一句を教えてなくて、僕ができなくて泣いちゃって。「できた」と思ったのに一句足りなかったから悔しいわけでしょ?僕にとって。それで心配した実先生が「こういうことがあったよ」って父のとこへ電話してくれて、父から謝られたことをすごくよく覚えてます。意思疎通を図りながら、流儀をあげて育ててくれてんだなっていうのを感じましたね。 ―周囲のサポートが大きかった。 ことに父は菊生叔父を信頼していました。能夫の教育は菊生に任す、と。いろんなことを教えてもらったし、地謡は隣でいつも謡ってましたからね。菊生叔父は地謡を大事に考えてました。すごいスケールが大きくて、声量もありましたし、僕とか他の人たちが好きに謡ってても、みんな菊生叔父に束ねられてたなぁなんていう感覚がすごくありますね。 それはおじいちゃんがしっかり地頭でやってたっていう、菊生叔父なんかにもその自負があるんだと思います。ですから父や菊生叔父から教えてもらったものは次の世代の人達に伝えていきたいなと思います。習った、聞いただけでなく、自分で工夫をしてオールマイティーな人間、全てに渡って成長してほしいですね。 ―演じたい曲はありますか? いろいろありますが、どんどん演るんじゃなくて何年か後にこれを演りたいなと思って自分を律して勉強していくというか、どうしたらこの曲に到達できるかっていうのを考えながら計画をたててやってます。日々何か目標をもってないと新鮮ではないですし。 ―好きな曲は? 三番目物といいましょうか。夢幻能でしょうね。『井筒』、『野宮』、『定家』とか。 ―その理由は? 〈序ノ舞〉を舞うのが楽しくてしょうがないっていうことですね、簡単に言えば。その中に委ねられて、その動きの中から一つの情感というか、思いというものを少しずつ発露していくというか。そういう作業が僕は好きなんですよね。 ―今度の弘前城築城400年祭薪能で演じる『羽衣』は? 難しい曲ですね。天に帰って行く、綺麗さ、楚々としたもの…。どう演じようか、と。 ―その難しさをどう克服されようと? 例えば面を替えたり、装束や立てもの(冠)を替えたり…。まずは面を選んで、どうコーディネートしようか決めます。 ―そうなりますと、天人のイメージというのは? 聞いた話ですけれども、白竜(ワキ)といろいろやりとりしますよね、衣をとられて。それで舞を舞いましょうと衣を着たとたん天人になってしまい、人間的な感情は無くなる、死の世界というか、ただただ舞って帰っていく…、というような考え方もあるぞ、と。それと一番思い出に残っているのは、菊生叔父から言われたんですけど、名文句がありますよね「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものぞ(※2)」。それを謡いながらワキへ向くと、優しく包み込むように言っている、そうではなくてワキから目をそらすと、そんなこともわからないのかと引き離すように言っている…。謡と所作だけでもそれだけの表現ができるんだよ、っていうので、能は面白いなぁと思った記憶はあるんですよね。能の演技を考えるきっかけになったような気がします。 ―では弘前の時は、どういう…。 どういう天人になるかは…、観て下さい。 歴史を紐解くと、弘前藩津軽家のお抱役者に喜多流の役者で紀喜和(きわ)(淑和(よしかず))・喜真(きしん)(淑真(よしざね))親子、また、十五世宗家・喜多実氏の実兄である後藤得三氏の芸談によれば、弘前には喜多の分家にあたる喜多権左衛門家があったともいう。そうした流れをうけて、父・新太郎氏が弘前へ稽古に出かけ、現在も能夫氏との縁が続いているという。築城400年を記念した演能に相応しいキャスティングといえるだろう。『羽衣』のほかには、野村万作氏による狂言『二人大名(ふたりだいみょう)』、同じく喜多流の半能『石橋(しゃっきょう) 連獅子(れんじし)』と、いずれも見応え十分、華やかな舞台に期待が高まる。 ※1:シテ方観世流(生没1925年〜78年)。 ※2:いいや、疑うということは人間にだけあること。天にはそもそも偽りということがないのに。 インタビュー・文/北見 真智子 撮影/柳 拓行
●ページTOPへ ●HOME
|