KENSYO>能狂言インタビュー バックナンバー



KENSYO vol.84
観世流 シテ方 
大西智久
TOMOHISA ONISHI


演ってみるといいもんだな、
面白いなと、
だんだんそれにはまっていく。


大西 智久(おおにし ともひさ)
観世流シテ方。創始250年の大西家八代目当主。
1938年大阪に生まれる。父、大西信久および二十五世宗家観世左近に師事。1941年「鞍馬天狗」花見で初舞台、1944年「俊成忠度」で初シテ。その後、「鷺」「翁」「石橋」「乱」「道成寺」「卒都婆小町」「鸚鵡小町」「姨捨」「檜垣」などを披く。これまでに600番近くを舞い、昨年、舞台生活70年を迎えた。

大阪の中心地・梅田の繁華街に近い大阪能楽会館を拠点に活動を続ける大西智久氏。2010年に大西家創始二五〇年、昨年には初舞台七十周年を迎えた重鎮にお話をうかがった。

―初舞台は何歳ですか?
 初舞台は昭和16年の春、2歳半です。『鞍馬天狗』のお稚児さんで。だいぶ駄々をこねたらしく、舞台で父の膝に座ってるんです。だから父に手ひいてもらって出たんだろうと。5歳半で『安宅』の子方、6歳の時に初シテで『俊成忠度』、『鷺』は8歳で披きました。

―お稽古はお父様に?
 父(信久)よりもおじ(信彦)に教えてもらったほうが多かったように思います。私の初シテの時も。それと、両方のおじ(信弘、信彦)のところに男の子がいなかったもので、期待もあって、これでもかという程次から次へと。稽古は厳しかったですね。

―その頃のつらかった記憶は?
 稽古で角トリ(※1)して踏んばった時に、腰が入ってないとおじに足をはらわれて、舞台の上で倒されたというのは覚えてます。それから、私が懲りたのは『木賊』の子方を演った時。ちょうど夏だったんですかね、角帽子をつけてる間から汗が落ちてきて目に入って。涙は出てくるし、拭けないし、長いこと座ってるから足は痛いし、こんなつらいもんない、と思って。だからその時決心して、大人になっても『木賊』は絶対舞わないと。今でも舞ってません(笑)。

―22歳で『道成寺』を披かれてから家元(=25世左近)のところへ修業へ?
 はい、その年の6月だったかな。

―先代の家元の稽古はどうでしたか?
 謡の稽古は座ってやってもらったのは一度だけあります。あとは人のを見たりして覚えないと。それと、お役をもらった時には、その稽古をしていただきました。

―初舞台七十周年記念の舞台で『檜垣』を選ばれたのは?
 以前に『姨捨』をさせてもらったし、『関寺小町』はちょっとまだだろうし。老女物でも『檜垣』の方がいいかなと思ったので。

―舞われた感想は?
 自分でできる精一杯のことはやったつもりですけども、後で考えたら、あれも、これもって。何番舞ってもいつも反省ばかりで。ちょうど七十周年の時に、今までどれぐらい舞ったのか数えてみたら六百番近く舞っています。けれども、やっぱり自分で満足する舞台なんてのは、まず無いですね。

―お父様は初舞台七十周年記念(昭和54年)で『関寺小町』舞われましたね。
 はい、父は『関寺小町』で現行曲、全曲を舞ったんです。

―それはすごい。
 昔は定期能で父が毎月舞っていましたし、五番ずつ演ってたものですから。それで、おじ(信彦)が遠い曲(※2)であっても地謡とか全部引き受けるからと言うので、そういう助けがあったおかげで全曲舞えたんだろうと思うのですけれど。私はとうてい(笑)若い時分はあんまりこの道が好きでもなかったんですよ。中学・高校時分なんかは、どっちかというと、お医者さんになりたくて、学校の勉強ばかりしていた。だから、あんまりこの道の勉強をしてなかったように思います。

創始二五〇年をむかえる大西家の歴史をたどってみる。江戸時代、京の町では素謡が流行。その謡は幕府お抱えの式楽として演ぜられる能の謡とは異なる独特の芸風だったと言われている。林家、浅野家、井上家、岩井家、薗家のいわゆる京観世五軒家と呼ばれる諸家が芸を継ぐ中、大西家初代・新右衛門宗明は、岩井家に学んだ人物として記録に残る。1805年に岩井家七代目が歿して岩井家が絶家、その芸風は弟子であった大西家四代目・寸松が伝え、五代目・閑雪、そして智久氏の祖父(新三郎)の代まで続いたという。

―お父様の代で、全国統一の主旨を唱えた宗家の謡になおされたのですね。
 昭和元年に。ですので、私はあまり知りませんが、父はちょこちょこ岩井派の謡について言ってました、こういうのがあるとか。父も家元のところへ行きたかったみたいですけど、おじいさん(新三郎)が五代目・閑雪の娘婿に入ってからこの道をはじめた方だったので、難しかったようですね。閑雪には息子がいなかったんです。それで、閑雪は甥っ子にあたる手塚亮太郎を仕込んでいて、その恩を信久にかえすと言って、父をだいぶ仕込んでくれたみたいです。おじいさんも慣れない世界でだいぶ苦労したみたいですけど、息子六人、娘一人に恵まれて、七福神と喜んでいたみたいですよ。私が「千歳」を勤めた舞台は、父と信弘と信彦の3人で『翁』。兄弟のいない私には、うらやましかったですね。

―先生のご子息は。
 長男の礼久。次男の孝久も『石橋』『乱』ぐらいまでは舞っていたんですけども、「いくら僕が頑張ってもお兄ちゃんを抜くことができないんだから嫌だ」って言い出してね。いまはサラリーマンです。でもね、別の道に行って、それで兄弟仲良くやってくれるほうがいいだろうと思って。今はすごく仲がいいからよかったなと思ってます。

―それでは礼久さんにプレッシャーが?
 いいえ、全然。私なんか、はっきり言って、家元のところへ行くときに、なんとなくこれからつらいな〜、っていう感じで行ったんですけども、長男は意気揚々として、喜んで行ったんです。息子は好きです、この道が。だからそれはそれで良かったんだろうと思います。

―先生がこの道にと決心されたのは。
 大学1年ぐらい。東京のおじ(信弘)の所へ泊まった時、こんこんと説教されて、あぁ、やらなきゃいけないんだな、と。それからですね。本当にやる気になってやり出したのは。私は結局、恵まれた立場にいたんでしょうね、600番近くも舞えたということは。そして、演ってみるといいもんだな、面白いなと、だんだんそれにはまっていく。そうして自分の進む道はこれしかないんだと。

―今後に思いをよせるならば。
 いま、能に興味を持ってくれる若い人、本当に愛してくれる人、勉強したいという人をどんどん養成したい。少子化の影響かもしれませんが、養成会でも家の子だけしか稽古していなかったので、それだけではやっぱりだめ。今年から大阪の養成会でも、一般公募するようになりました。そうしないと続いていかないだろうと思うし、せっかく世界の文化遺産になったのにね。跡を継いでくれる人がいないと、だんだん廃れてくるんじゃ、さびしいです。観て下さる方には、鼓の音がいいとか、歩いてる姿がきれいとか、何でもいいから興味をもって、とにかく観てほしいですね。

能の家に生まれ、芸を学ぶ環境に囲まれて育った智久氏。だからこそ感じておられるのかもしれない、一生をかけて学べるありがたさ、そして次世代へつなぐことの難しさを。73歳を超えてもなお、体力作りに励み、他にも舞っていない曲に挑戦したいと語るその姿は、若手を育てたいと願う思いと重なって見えた。


※1‥能楽の型のひとつ
※2‥あまり上演されない曲

インタビュー・文/北見真智子 撮影/墫 怜治

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