KENSYO>能狂言インタビュー バックナンバー



KENSYO vol.89
観世流 太鼓方 
観世元伯
MOTONORI KANZE


引き出しをたくさん
持っていたらいいかなって。

観世元伯(かんぜ もとのり)
1966年生まれ、東京在住。観世流太鼓方。
同流十六世家元観世元信の長男。
5才の時、独鼓『老松』で初舞台。
東京藝術大学非常勤講師、国立能楽堂研修生講師、公益社団法人能楽協会 理事。
 

能の囃子の中でも華やかさと強さが印象的な音色の楽器・太鼓。その芸を現代に受け継ぎ、様々な舞台で活躍する観世元伯氏にお話をうかがった。

―子どもの頃は?
稽古を始めたのは4歳。幼稚園から帰ってきて太鼓を持っていってお調べをやって、それから「今日なんだっけ?」と親父が言うので「今日は何々です」、「じゃぁやろうか」って。ちゃんと挨拶して始まって、正座でしたし、敬語でした。

―お父様はやさしかったですか?
怖いイメージはなかったですが、小学生になると冷たいイメージがありました。間違えたり、できないと、「今日やってもしょうがないから」。そこで稽古が終わっちゃう。「ラッキー」と思う時と、すごく落ち込む時と。そんな時は近所の人と野球をよくやってました。

―活発な少年でしたか?
物怖じしなかったかな。いろんな人とも話したり、興味あるほうへいっちゃう。昔の知り合いに聞いたら、お寿司屋さんになりたい、バスの運転手になりたい、いろんなものになりたい…でも最後には、太鼓の先生になるんだよね、ってぼそっと言ってたって。うちの姉が見ていたドラマ『白い滑走路』が好きで、パイロットにもなりたかった(笑)。

―能を初めて勤められた時は?
中2の時の『船弁慶』。間違えずにやって、親父も「可もなく不可もなく」みたいな感じだったんじゃないかな。親父に褒められたことって2回だけで、高校3年生の時の舞囃子『高砂(たかさご)』と、昭和58年に〈獅子〉の披きを『望月(もちづき)』でさせていただいた時。「あれでいいから」っていうだけ。父の稽古は「ちょっとノリが違うんだなぁ」とか「曲のイメージがない」とか、すごく抽象的。父の後見で座ってて、終わると「聴いててわかったね」、それでおしまい。次の稽古の時にそれができないと怒られるというか、「あなた、座ってただけなの?」って言われて…。

―忘れられない舞台や印象的な経験はありますか?
『朝長(ともなが)』の〈懺法(せんぼう)〉(※1)。親父が倒れる何年か前、小寺佐七さんが〈懺法〉をする時に、稽古場に一緒にいることを許された。「見ててもいいよ。稽古つけんのはもっと先だけど」って。父は芸力と人間性とかいろんな要素が揃わないと教えないっていうような人だった。「まだあなたには早いから」。そればっかりだった。〈懺法〉も「姨捨(おばすて)」も奥までのことは親父に稽古を受けてないんですが、その後諸先輩方に注意をいただいて勤めることができました。印象に残っている舞台は、宝生流シテ方・松本忠宏(※2)さんの『阿漕(あこぎ)』。
僕も舞台に出ていましたが、前場の最後とかすごく覚えてます。さりげないというか、見せるということを意識しないで淡々とされているというのが衝撃的で。そういう型の綺麗さは、なんとなくお能らしくて好きだなと思って拝見してました。あれは忘れられないですね。

少年期の頃から能楽堂へ行って先人たちの能を数多く観てきたと振り返る元伯氏。
床に座って打つ太鼓方の視線にはシテの全容が入りきらないことから、舞台に出る前が勝負だと語る。それは楽屋に並ぶ面や装束を見て、その日のシテがイメージする登場人物や作品の全体像を汲む必要性を感じてきたからだ。能の演目には太鼓が入る曲(太鼓物)と入らない曲(大小物)とがあり、神、鬼、精など超人間的な役が登場する曲で演奏される。また奏する箇所も主に後半部分と限られていることから、太鼓の加入で生じる全体のバランスや、太鼓がリードする責任の重さに話が及ぶ。

―太鼓の魅力は?
範囲が決まっている中で自由さをどう出すか。そこで失敗すると大小(大鼓小鼓)を巻き込んでしまう責任が太鼓にはすごくあります。囃子方の醍醐味ってバレーボールみたいなところ。簡単にたとえれば、レシーブする人間がトスを上げることもあるし、打つほうにまわったりもするじゃないですか。ここは任せるからここは僕が責任とるねって。そこで決めないと次に進まない、今までの流れを壊しちゃうというようなことがある。だから前半を必死になって大小が作ってて、太鼓が入ったら大小の人が「あぁよかった」と思ってもらえるような信頼感、そういうイメージかな。

昔、先輩たちが申し合わせ(リハーサル)で、太鼓の人が後半から舞台へ出たりしてたわけですよ。それで高校生頃かな、銕仙会の稽古能で同じことしたら先代の銕之亟さんに「おまえなんか後から出てきて、そんなんできるわけねぇ!」って烈火のごとく怒られた。あぁ、前の人たちが作ってきた流れがあって、そのバトンを渡されて自分が打つのか、ということを考えさせられる事件でした(笑)。

太鼓は打てば音が出るのですが、音のクオリティーを求めていったところで深みにはまる道具です。自分の体調もあって、変な話、背骨の骨1個なんか今日は低いかな、
高いかなって。そうなると腕の角度がどうなってるのか、革の跳ね返りがどうかとか…。うち(観世流)の習いで「打つ響き 手の内(うち)にあり」、つまり手のひらでバチが鳴ってることを感じなさいっていうのがあるんです。音じゃなくて手にどういう振動で伝わってくるか…。バチのにぎり方ですが、うちは剣術の柳生と仲がよくて、剣の握り、だから薬指小指のほうで持つ、あとは添えるだけだ、と。
金春流は逆で親指人差し指で持つ、要するに弓。だから頭(カシラ)を打つ時、スッと弓をひく様な感じ。うちは剣を打ち込むようなつもりでと聞いたことがあります。

―曲を作り上げていくには。
イメージ先行なんですよ。父がそうだった。この間、歯医者に行って思ったんですけど、ホワイトニングでも微妙な色の違いとか、ものすごい種類があるんですよね。だから同じ『羽衣(はごろも)』でも、もしこういう引き出しがあったら面白いなと思って見てたんです(笑)。つまりバリエーションです。少しまったりしたのが好きだとか、さらさらしたものが好きなのか、乙女チックなのか、子どもっぽいのか、それとも成熟した女性なのか…。今日のシテはこれを選んだのだろう、というような引き出しを自分がたくさん持っていたらいいかなって。ほんのちょっとしたことで柔らかく聞こえたり、無機質に聞こえたりするでしょう。僕はそれができる人間になりたいと思っています。

かつては諸先輩方のしぐさや演奏の真似が得意だったとのエピソードも語ってくれた。取材中に飛び出すユニークなたとえ話しも、なぞらえる力や観察力に優れているからこそ。柔軟な発想がすべて能につながっている。

(※1)〈懺法〉:『朝長』の小書。
重い習物で、特に太鼓方は最高の秘事として大切に扱われる。
(※2)松本忠広:1922年生〜1994年没。宝生流を支えた昭和の名人の一人。

インタビュー・文/北見真智子 撮影/ヒロセ マリコ


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