KENSYO>能狂言インタビュー バックナンバー



KENSYO vol.94
シテ方観世流 
野村四郎
SHIRO NOMURA


還暦からスタートした
第二の人生

野村 四郎(のむら しろう)
1936年東京生まれ。和泉流狂言方六世野村万蔵家の四男。
1940年狂言「靭猿」で初舞台。1952年観世流宗家二十五世観世元正に内弟子入門。能楽界の重鎮として、秘曲や復曲能の上演、新作能の作曲や作舞、海外公演、後進の育成など幅広く活躍。芸術選奨文部大臣賞、紫綬褒章、日本芸術院賞等を受賞。東京藝術大学名誉教授、日本能楽会会長。

 

和泉流狂言方六世野村万蔵家に生まれた四郎氏。狂言界をリードする家系にあって、兄の萬氏、万作氏、そして弟の万之介氏が家の芸を継承したのに対し、能のシテ方として精進を重ね、確固たる地位を築いてきた。

私の場合、3歳で初舞台を踏んで15歳まで狂言をやっていました。父の稽古は厳しかったです。「芸」の大事さ、厳しさは父に習いました。それが私の「基(もと)」を作ってくれましたね。耐える精神です。それから 歳で観世宗家の元へ入門させていただきました。能のことは何も知らないものですから、先輩に手ほどきを受けたり、当時は芸大の観世流に入っていた兄(萬)に謡のことを聞いたりして助けてもらいました。
あとは舞台を見たり、音だけ聞いたりして、見ならう。摂取力というのでしょうか。狂言の稽古は本を見ませんから、おうむ返しの稽古で慣れているのは、他の方とは違っていたでしょうね。繰り返すことがどんなに大事かということを学びました。若い頃は基本的な技術をきちっと間違いなく身につけて、今度はそれをいかに応用し、創造していくかです。「芸は人となり」と申しますから、人生のいろいろな体験が芸の根本になると思います。

―これまで印象に残った舞台は?
観世寿夫(1925〜1978)さんの『野宮(ののみや)』あるいは『定家(ていか)』。作品が役者を選ぶといいますか、お前なんかにできないって、曲の方が拒否反応を起こします。通り一遍の動きだけをなぞるような人にはできません。寿夫さんは、能ばかりを勉強していたんじゃなくて、西洋の演劇にも造詣が深い。それによって、より日本の能の考察が深くなる。普通だったら、そんな余計なことをと言うかもしれませんが、そうじゃありません。他のものをやることによって、能をある意味客観的に見ることができる。「慣れて慣れるな」です。違うことをやることによって、深みも増すけれども、いつも新鮮なんですね。

―若手のご指導も?
若い人の養成もやっていますが、環境が大事ですね。いい環境ですと自分の目標が決められて、自分で是非を考えることができますが、悪いと「耐える力」も自然と消滅しましょう。大好きな世阿弥の言葉は「是非初心忘るべからず」。私の言葉に置き換えると「自問自答しろ」です。今日やったものは是であったか非であったか。過去650年という長い時代を背負って、未来に向かって一歩ずつ、山登りのハーケンを打ちながら上がっていくような教育方法が大事な気がします。

―東京藝術大学音楽学部(邦楽科能楽専攻)の教授に就任されたご経験は大きいですか?
常勤になりましたのが還暦ですよ。今まで自分が培ってきたものと違うことをやる余裕がないし、大学での能の勉強方法に疑問を持っていましたから、失礼ながら断りに行こうと思っていました。最後は「あなたしかいない」とおだてられ、「じゃあしょうがない」ということで(笑)。それでカリキュラムは、私流のものに変更しました。いわば実力主義というと言葉が過ぎますが、少なくとも芸を目的に学んでいれば、自然と優劣ができてしまう。優の人はどんどん伸びてゆけばいいし、劣の人は追いかけるつもりでお互い切磋琢磨するような教育現場であるべきだと思いました。それから、芸大は美術学部も音楽学部もあります。大勢の優秀な人たちが集合していますから、そういう人たちと交流することによって、いろんな教養、文化を習得するべきだと思います。

―様々なジャンルや人材が共存する大学の環境を生かして、専門の壁を超えた、新しくて自由な発想による企画を発案。平成14年から「和楽の美」として現在まで続いている。
箏曲にも長唄にも『熊野(ゆや)』がありますので、能の作品をテーマに取り上げてやろうではないか。その時に音楽学部だけじゃなくて美術学部とも協力する。そして、能『熊野』の「〜候」を一切使わない新しい感覚、文体を専門家にお願いして作っていただきました。
登場人物の平宗盛ですが、熊野が病床の母親に会いたいと願うにもかかわらず、帰郷を許さない。あまり好まれない男性として扱われています。しかし実は宗盛も、平家滅亡を間近にして今生の花見という考え方があると思うんですね。そうした宗盛の人柄を解釈して、私の演出・主役の時は、最後は箏の音楽でしだれ桜の中に宗盛が消えていく場面を作りました。その根本にあったのは、昔、テレビで拝見した中村歌右衛門さんがなさった三島由紀夫の『熊野』。ラストシーンに河原崎権十郎さんが花道の方を見て、「逢えぬのじゃ」と言ったんですね。このひと言は、私に矢を刺したように感じました。

―芸大との関わりがきっかけとなり、ここ数年、浄瑠璃や新内節、クラシック音楽など、次から次へと新しい競演に力を尽くす氏の姿が目を引く。
気取ったいい方で恐縮ですけど、私の新しい人生の出発点です。まだまだいっぱい勉強する事が残ってるんです。多くの方との競演でいろいろなことを思います。例えば、社会学者である鶴見和子さんの七回忌に舞う機会がありまして、鶴見さんの本を読みました。正直申し上げて、こんな方をいままで知らなかった僕って何だったんだろうと思いました。アミニズムという言葉。自然崇拝と申しますか、だんだん都会の中から薄れている実感を持てたのは鶴見さんのおかげです。能の舞は、ビルの中でやっていても、その建物をこえて自然の世界が舞台の中に表現できる。宇宙観みたいなものと、時空まで超えていろんなものが登場してくる特性を持ってるでしょ。そういうものを訴えがけしたいなと思っています。都会の中に自然の感性を甦らせることは、能役者の使命のような気もしています。

―最後に
演劇というのはすべて演者が分からせてくれるものが多い。ところが能はそうした世界とは違います。想像力なのです。「わかる/わからない」というより、「感じる/感じない」という見方ができれば、能に一歩も二歩も近く歩んできて下さったことになろうかと思います。ぜひそういう風にご覧いただければ、我々役者もそれに向って結集し、演じる人間の感性もどんどん鍛えて、ひとつの作品を創ってまいります。

「能楽師」ではなく「能役者」という言葉を使いたいとも語る四郎氏。成熟かつ開放感あふれる舞台をいつまでも見続けていたいと願う。

インタビュー・文/北見 真智子 撮影/八木 洋一


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