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吉田 簑助

KENSYO vol.43
人形遣い 吉田 簑助
Minosuke Yoshida

人間国宝の復活を支えた思い
「文楽は私のすべて。」

吉田 簑助(よしだ みのすけ)

1933年8月8日、大阪に生まれる。1940年6月、三世吉田文五郎に入門。1942年、桐竹紋二郎と名乗る。四ツ橋・文楽座『絵本太功記』「本能寺」の三法師丸で初役。1961年三世吉田簑助を襲名。1994年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。1995年NHK放送文化賞、大阪芸術賞、1996年紫綬褒章、1997年日本芸術院賞など受賞多数。

簑助さんが舞台に登場すると、ぱっと花が咲いたように華やかになる。
それは周知のことだが、二〇〇一年五月、東京・国立劇場で上演された「曽根崎心中」の遊女・お初は再認識させた。愛し合う仲の徳兵衛とのやりとりに情愛が滲み、簑助さんと一体になった人形にひきつけられた。
「役の心になりきって演じる…。この一言に尽きます。単に人形を操っているだけでなく、私自身が人形の姿をかりて演技しているのです」
そして、九月の国立劇場と十一月の大阪・国立文楽劇場の文楽公演「本朝廿四孝」では、動きの激しい八重垣姫に挑んだ。
戦国時代に自分の意志とは関係なしに翻弄された男女の恋。うぶな姫が恋を打ち明け、諏訪明神の白狐に守られて、その男、勝頼に危機を知らせに行く。明神の神体が姫に憑衣する場面は迫力があった。

三年前、脳出血で休演。療養に専念して八か月後、復帰した。あまりの早さに周囲を驚かせたが復帰公演は簑助さんの快復を喜ぶ客でわいた。八重垣姫は完全復帰を思わせた。「言葉はあまりかないませんが体調は良好」。それでも、八重垣姫を演じるには決意を必要としたそうだ。
「五月末に国立の制作から八重垣姫のお話があった時、ずいぶん悩みました。かなり動く役ですから、もっと動かない役に回ろうかと。いったんは辞退したのですが、舞台装置を造り替えても、振りを変えてもいいから是非にと勧めていただいたので、そこまで言ってくださるのならば、体を鍛え直して万全の態勢でのぞもうとお受け致しました」
それからの努力がすごい。毎日、フィットネスクラブに通った。水中歩行、ストレッチ、ダンベル体操など午前中、約二時間、汗を流し、自宅近くでの散歩など今も続けている。
「病気になるまではスポーツとは無縁でしたが、まさに、背水の陣でした。結果的には装置も替えずに務めることが出来ました。八重垣姫のおかげで、ここまで体力がつき、病気を克服できたのかもしれません」と、うれしい答えが返ってきた。

二〇〇二年は、一月公演の「国性爺合戦」の錦祥女役から始まる。
明国の危機を救うために、錦祥女の嫁いだ獅子が城を訪れた異母弟の和藤内ら一行の為に助力するという役どころ。みどころは、錦祥女が楼門の上から父の老一官の姿を鏡に写して懐かしむところや、自害した後、自らの血潮を泉水に流す「紅流し」の場面だ。
「錦祥女は動きが少なく、とりたてて、しどころのない役ですが、武将・五常軍甘輝がホレ抜いている恋女房で、城の女主人としての凛とした気高い美しさの中にも、情愛ある女性を表現していけたらと思います」
初めて錦祥女を演じたのは「二十代後半」で、今では考えられない早さだ。文楽が三和会と因会に分裂して人形遣いら技芸員が分散していた時期だ。簑助さんは三和会に所属し、大阪と東京の三越劇場で上演された。
「年齢のわりには、よい役が回ってきて、錦祥女もそのような役の一つ」だが、文楽は実力主義の世界。若いころから「センスや才能は光っていた」と聞く。

代表作に、室町、鎌倉を時代背景に公家や武士らを描く時代物なら「伽羅先代萩」の政岡、町人世界を題材にした世話物なら「艶容女舞衣」のお園がある。
政岡は、お家騒動で命を狙われる主君の若君を、我が子を毒味役にして守る忠義一筋の凛とした堅過ぎる女性。目前で我が子が理不尽に殺されても毅然としている。回りにだれもいなくなった時、初めて我が子を抱きしめる。堪えていたものが一気に表出する。奥の深い役だ。
「位、品ともに最高の役で、浄瑠璃が聞こえてくるとシャンとしてきます。しんどい、しんどい、はやく終わらんかいなあと思う役は一杯ありますけど、政岡は、そういう気持ちにならない」
お園もそう。夫に浮気されて裏切られるのだが、夫も愛人も、だれも恨まない。大きな愛ですべてを包み込むような女性だ。多分、今も昔もそういう女性はほとんど、いないように、情愛を描く文楽でもお園のような女性は少ないタイプだ。
「他の役の足を遣っていた子供時代から、お園にはあこがれていました。世話物を代表する女形だというのが頭にありました」と、本公演以外の講演やキャンペーンでもお園を遣う。一番、遣う回数が多いかもしれない。
「私の存在は、三百年以上続く文楽の中で一つの点にしかすぎませんが、人形遣いの道を選べて幸せでした。子供のころから人形遣いの父のおともで劇場に通い、この世界のことしか知りませんが、生まれ変わっても、また人形遣いになりたい。一生分の修行では、まだ足りないと、常々そう思っています。文楽は私のすべて、命尽きる瞬間まで舞台に立ち続けます」
四月大阪、五月東京で没後千百年の菅原道真にちなんだ「菅原伝授手習鑑」に出演する。



インタビュー・文/前田 みつ恵 撮影/八木 洋一



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