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豊竹 咲大夫

KENSYO vol.45
太夫 豊竹 咲大夫
Sakitayu Toyotake

近松の名作「曽根崎心中」で
“お初”を語る

豊竹 咲大夫(とよたけ さきたゆう)

1944年5月10日、大阪に生まれる。1953年8月、豊竹山城少掾に入門、竹本綱子大夫と名乗る。同年10月、四ツ橋・文楽座にて「伽羅先代萩」の『御殿』の鶴喜代君で初舞台。 1966年9月、豊竹咲大夫と改名。父は八世竹本綱大夫。1984年咲くやこの花賞、1999年芸術選奨文部大臣賞、1999年国立劇場文楽賞大賞受賞。

初演から三百年を記念して近松門左衛門の「曽根崎心中」が、七月二十日から八月十一日まで、大阪・日本橋の国立文楽劇場で上演される。元禄時代、醤油屋の手代、徳兵衛と曽根崎新地の遊女、天満屋のお初が、曽根崎露天神で心中した事件を脚色。事件から一か月後の一七〇三年五月、大坂・竹本座で初演された。
窮地に追い込まれ心中を覚悟した徳兵衛とお初の道行のくだり「天神森」を、徳兵衛役の竹本千歳大夫さんと、お初を掛け合いで語る。
「近松作品の中でも曽根崎は分かりやすい。徳兵衛が好きで好きで、一緒に死んであげましょと言うお初は、色町にいるわりにすれていない。初は白無垢と言うぐらいだから、かわいく、いかに素直にすれてない女に演じるかですね」
江戸から明治にかけて再演を繰り返していたが、一八八八年以後、途絶えていた。今の「曽根崎心中」は、一九五五年に作曲の第一人者だった野澤松之輔さんが脚色、作曲したものだ。

初演時の文楽は一人遣いの人形だった。それを三人遣いの人形で演じる現代の文楽に合わせて作り直された。
その時、十二歳。父の八世竹本綱大夫さんと松之輔さんが「夜遅くから家で打ち合わせをしてました」と、現場に居合わせた。
「曽根崎心中は松之輔師匠の代表作。映画の『楢山節考』とこれは傑作中の傑作」と、力がこもる。「この世の名残、夜も名残、死に行く身をーーー」と語り、「荻生徂徠が絶賛したという名文、名曲、名演奏、さらに人形の吉田玉男さんの徳兵衛と吉田簑助さんのお初、それらすべてが重なり名舞台を作り上げた」
近松の詞章は字余り字足らずで、突然せりふが入ったりして語りにくいとも言われるが、咲大夫さんは「近松の魅力は行間にある」と言う。
「主役だけでなく脇役の存在感もある。ちょっとした一言で、その人物を語れる。脇役の面白さというものは、演じる者にとって、たまんない魅力ですよ。父親が近松作品に傾倒して大好きでしたから、その影響で僕も好きですよ」
道行だけでなく全編を何度も語っている。情景描写にも深みの出る語りでひきつけ、登場人物それぞれの個性を出してあきさせない。義太夫節を堪能させてくれる。

入門のきっかけは、父親がラジオの正月番組に出演するのについて行った時、父親の師匠でもある豊竹山城少掾師匠から、床本(浄瑠璃台本)を置く見台をやるから「おまえさん大夫になるか」と言われたそうだ。
「高弟が父で、末弟が僕ですわ。それで、初舞台は師匠が父親に、おまえとは将来いくらでも一緒に出られるやろうから、わしが連れて出るいうて、本来、師匠が一人で語るところへ出させてもらった」
「伽羅先代萩」の「御殿」の鶴千代君役で、主役である乳母の政岡を語る師匠との掛け合いという「幸運な」初舞台を踏んだ。
「師匠は八人、お子さんがいらっしゃったけれど、一番長生きしても十六歳ぐらいで亡くなってて、僕は孫みたいなもん」と謙そんするが、期待される少年だったに違いない。見台だけでなく、師匠の床本も受け継いでいる。
「師匠や、父ら名人の床本は貴重でね。汚い話ですが、つばが本に飛んで、字が薄くなってる。その飛びようで、力の入れようが分かる。舞台で本を頭上に頂くでしょ。そりゃあ、ありがたいですよ。あの名人と同じ本を遣わしていただいているんだからね」

今、古典芸能の若手が様々なジャンルで活躍して注目されているが、咲大夫さんも若いころから他方面で活躍、テレビやラジオに出演し、歌舞伎の坂東玉三郎さんとの共演や監修など硬軟自在で幅広い。
「あと三年で六十歳ですからね、いつまでもやってはいられませんが、芸人は顔を売るのも仕事。少し前までよく言っていたのは、咲大夫出前論。文楽は古いもんや何言うてるか分からへんと言われるのは、まことに悲しいことだから、色んなことをやってきました。だけど、常に文楽へ道は引っ張ってました」
今、弟子は三人。四月から文楽協会の研究生となった十二歳の少年が楽屋に通って来ている。歌舞伎の人気俳優たちも稽古に顔を見せるという。
「父親は何も言いませんが、父の相三味線だった十世竹澤弥七師匠に『外へ出て行くのに洋服ダンスはいっぱいになってるか』と、しょっちゅう言われました。つまり基本が出来てるかってことなんですけどね。今、僕も弟子に言いたい」との苦言も。と同時に「チャレンジ精神は必要」と言った。
「七、八年前に大病をして復帰不可能と言われたのを義太夫の神様が助けてくれたと思ってます」と、以来、節制している。「ステーキ食べな腹に力が入らないとか言っていたがパンでも義太夫を語れるようになった」と笑わせた。とにかく話題も知識も豊富。浄瑠璃の語りを交えた話に得した一時間だった。



インタビュー・文/前田 みつ恵 撮影/八木 洋一



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