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坂東 薪車

KENSYO vol.65
坂東 薪車
BANDO SINSYA

お客さんに少しでも元気になって
帰ってもらえたら、うれしい

坂東 薪車(ばんどう しんしゃ)

音羽屋。1972年4月4日、千葉県に生まれる。1998年9月、大阪松竹座『ヤマトタケル』の舎人、熊襲の兵士で坂東竹四郎を名乗り初舞台。 坂東竹三郎の芸養子となり2005年4月、大阪松竹座「第二回浪花花形歌舞伎」において『車引』の杉王丸で四代目坂東薪車を襲名。 門閥外から登用された期待の若手。坂東玉三郎との共演など、相次ぐ大抜擢に真摯な演技で応えている。
 2年前に師匠の坂東竹三郎さんの前名を継ぎ、竹志郎改め坂東薪車を襲名。
師匠の芸養子にもなり、「菅原伝授手習鑑」の「車引」で若々しい杉王丸役を務め、披露した。「師匠が築かれた名前の重みを大切に、命を継ぐ覚悟で修業したい」と決意を語っていた。

 その言葉通り、坂東玉三郎特別舞踊公演「船弁慶」の源義経役や「日高川入相花王(いりあいざくら)」の人形振りで挑んだ船頭役など、初役が続き、大阪市が40歳以下の若手から選ぶ2005年度の「咲くやこの花賞」を受賞するなど快進撃が続いている。

 この4月に行われた歌舞伎俳優としての技量を見る名題試験も合格、「名題」に昇進した。

 「杉王丸で名前がある役を初めてさせてもらった。船頭の時は友達も見に来てくれたんですが、顔が真っ黒で『どこに出ていたの』と聞かれて船頭だと言うと『えー』って驚かれ、化けたというか自分の中で逆にうれしかった」と、演じる喜びも知った。

 大阪松竹座(道頓堀)の7月大歌舞伎では「鳥辺(とりべ)山心中」で遊芸にふける兄に説教する源三郎役を演じる。

 「これも僕にとっては大役で、兄に意見をしに座敷へ乗り込み、兄の朋輩といさかいになり、あげく立ち回りになるという役です。一言でいうと実直な人間ですが、けんかっぱやくて一途な役だと思う。敵役にはならんように、最後、互いに引っ込みがつかなくなって決闘したんだなと見てもらえるような役にしたい」と話す。

 実際の薪車も、子供のころは「よくけんかするわんぱく小僧でしたね。外で遊ぶのが好きで、秘密基地を作っては、リーダー対リーダーのけんかとかしていましたね」と、明かす。学校から帰ったらカバンを放り投げて釣り竿を持って飛び出す釣りの大好きな少年でもあった。

 千葉県出身で、高校3年生の時に芝居のオーディションを受けてミュージカルに出たのが、この世界に入るきっかけになった。

 「それからダンスを始めて、オーディションばかり受けていました、映画とかテレビ・ドラマのちょい役もして、それから芸能プロダクションに入って、時代劇の立ち回りを知りました」と振り返る。その後、市川猿之助さんのスーパー歌舞伎にエキストラとして参加するようになり、「面白くて、みんな自分のけいこが終わると帰ってしまうんですが、僕は珍しさもあって毎日、最後までじーっと見てました。そんな僕に『あんたお芝居好きなんか』と師匠が声をかけてくださり、食事をごちそうになったりしていました」と、その後の行動力もすごい。師匠の竹三郎さんには一言の相談もしないで、いきなり「弟子にしてください」と師匠の家に押しかけた。

 「驚かせたんですが何とか弟子にしてもらい、舞台での動きなどの所作にも必要な舞踊を習い始めました」と、この9年、走り続けている。
8月には師匠が主催する「竹登会(たけとかい)」や上方歌舞伎塾出身者による「若伎会(わかぎかい)」、「上方歌舞伎会」もある。

 「上方歌舞伎は立ち役も女形も両方出来て当たり前。竹登会では舞踊で女形をさせてもらいます。師匠を始め、玉三郎さんらみなさんに教えていただけることを感謝しています。まだまだ勉強することが一杯ありますが、一生懸命やって、お客さんに少しでも元気になって帰ってもらえたらうれしい」と、改めて気持ちを引き締めている。

 顔は写真で見るとおりの二枚目で、177センチの長身。立ち役を中心に修業してきたが、女形もなかなかのもの。「声がまだできていません」とも言った。さわやかで礼儀正しい好青年だ。上方歌舞伎の新たなスターとして頑張ってもらいたい人材だ。


インタビュー・文/前田 みつ恵 撮影/墫 怜治
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