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豊松 清十郎

KENSYO vol.70
人形遣い
吉田清之助改め
豊松 清十郎

SEIJURO TOYOMASU

3人の師匠への感謝を胸に、
追い求め続ける芸の道


豊松 清十郎(とよまつ せいじゅうろう)

1958年(昭和33年)9月26日東京に生まれる。
71年四世豊松清十郎に入門。
文楽協会研究生となる。初名は豊竹清之助。
84年二世桐竹勘十郎に入門。
86年吉田蓑助に入門。豊松姓から吉田姓へとなる。2008年9月五世豊松清十郎を襲名。

  品のいいきれいな遣い方に定評のある人形浄瑠璃文楽の人形遣い吉田清之助さんが、五世豊松清十郎を襲名した。9月の東京公演に続いて、 月、大阪・日本橋の国立文楽劇場で襲名披露公演を行う。「本朝廿四孝」の「十種香の段」と「奥庭狐火の段」の八重垣姫に挑む。二世桐竹紋十郎さんから四世豊松清十郎さんが受け継ぎ、その後、吉田簑助さんが得意とする役だ。
 物語は、戦国時代の勢力争いに題材を得た名作で、長尾(上杉)と武田の戦いに許嫁の武田勝頼への恋慕を押さえきれない長尾の八重垣姫の心情を描くくだりが上演される。
 「歴代の師匠が作り上げて来られた役の一つで、それぞれに品格があって、お姫様らしいかわいらしさがありました。『十種香』は、御殿の中での姫と若殿との恋模様で、ゆったりした流れ。『狐火』になるとテンポが速く激しい動きになる。流れがグゥッと変わっていくところを楽しんで頂けたらと思います」
 文楽の人形は首(かしら)と右手を受け持つ主(おも)遣い、左手を遣う左遣い、そして足遣いの3人で一体の人形を操る。四世清十郎師匠の主遣いで足や左を遣っていた。
 「師匠は表情を変えないで人形を遣っていた。その姿が美しかったですね。クールに遣っている様に思われていましたが、ご本人はとても熱い方で『舞台で一番大事なのは熱。どんな役でも山(クライマックス)を作って遣え』と言われていました。足とか遣わして頂きながら舞台上で、もっと右とか前とか、父親以上の愛情で鍛えてくださったので、これまでやってこられた」と、振り返る。
 小学生の時に、歌舞伎や文楽が好きだった母に連れられて行ったのが、文楽との出会いだった。
 「楽屋へ出入りしているうちに古本屋で文楽の本を買って、首の名前を覚えたりしていた」と、中学1年生で四世清十郎に入門。清之助の名前をもらい、翌年、研究生として初舞台を踏んだ。中学へ通いながら、東京公演のある時は夜や休日に劇場へ行っていた。1974年に文楽の技芸員となって 年、「何か恩返しを」と、思っていた矢先に師匠が亡くなった。その後、二世桐竹勘十郎門下を経て、現在の師匠、吉田簑助さんのもとで吉田姓を名乗った。
 披露公演では、簑助さんや吉田文雀さん、三味線の鶴沢寛治さんら人間国宝が脇を固める豪華な舞台になる。
 「もうプレッシャーは多いですが、いい意味で細かいことを気にしないで、芝居の流れに乗って、役にのめり込んで遣いたい。迫力を出したい」と抱負を語った。
 襲名は、「その時期が来たら」と言っていた簑助師匠が「そろそろどうや」と声を掛けてくれたことで実現した。なによりも「豊松姓が復活するのがうれしいですね」とも言う。長い間、文楽の人形遣いは吉田姓と桐竹姓だけだった。やがては、豊松姓を増やしていくのも使命かもしれない。
 「豊松というと師匠のイメージなんですが、自分の出来る範囲を見極めながら、師匠に近づけるようになりたい。人形が生きているように動く人形遣いになりたい。3人の師匠を始め先輩たちのすごくいい舞台を見てきているので、少しでも近づけたら」との思いは強い。観客をひきつけ、感動を与える。そんな人形遣いを目指している。
 「性格的にマイナス思考で、これもあかん出来へんと思い悩んでしまう。だけど、この2、3年、出来てるかどうかは別として、舞台の中に入っていけるというか、何か一つになった感じで集中しきれたと思えるようになった。簑助師匠がそろそろと言ってくださったのも、その辺のことを見てくださったのだと思います」
 八重垣姫だけでなく、女形の大役を始め、立ち役(二枚目役)も、どんどん遣ってもらいたい実力派。次代を担っていく一人だ。

インタビュー・文/前田 みつ恵 撮影/八木 洋一


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