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市川右近

KENSYO vol.85
歌舞伎28 市川 右近
ICHIKAWA UKON

紡いでいく
─それが自分の使命。

市川 右近(いちかわ うこん)

澤瀉屋。1963年11月26日大阪に生まれる。日本舞踊飛鳥流家元・飛鳥峯王の長男。慶応義塾大学法学部政治学科卒業。’72年6月京都南座「天一坊」一子忠右衛門で初舞台。’75年1月大阪新歌舞伎座「二人三番叟」附千歳で三代目市川猿之助(現猿翁)の部屋子となり市川右近を名乗る 。
’89年松尾芸能賞新人賞、’90年咲くやこの花賞、’92年歌舞伎座賞、’94年名古屋ペンクラブ年間賞、’96年真山青果賞奨励賞。2006年3月国立劇場優秀賞。

舞踊の家から11歳で歌舞伎の世界に足を踏み入れ、猿翁(=三代目猿之助)のもとで藝を磨いてきた市川右近。師匠が生み出したスーパー歌舞伎をはじめ、古典歌舞伎や現代劇、テレビドラマなど他ジャンルにも活動の幅を広げ、精進を重ねる彼に話をうかがった。
まずは古典歌舞伎とスーパー歌舞伎の違いをお教え下さい。

─師匠の猿翁はスーパー歌舞伎のことを古典歌舞伎の口語訳であるとおっしゃっています。もともと歌舞伎というのは荒唐無稽なもので、江戸時代までは非常にショーアップされていたものなんですね。ただ、明治になってリアリズム演劇等が入ってきたときに、歌舞伎をもっと高尚なものにしなくてはならないと、坪内逍遙や真山青果(まやませいか)といった文豪が新たに歌舞伎の脚本を書き、それが「新歌舞伎」というジャンルになった。そうなると、たとえば歌舞伎の面白いところは、人間の喜怒哀楽を踊りで表現したりするわけですが、リアリズム演劇の風潮が強くなると、そこで踊り出すとおかしいわけですよね。なので、「歌(か)」(音楽)と「舞(ぶ)」(ダンス)の要素が大幅に削られて、ストレートプレイいわゆるお芝居という意味の「伎(き)」だけが生き残るわけです。そうして師匠が梅原猛先生とお話をされ、ドラマティックでテーマ性メッセージ性の強い物語に「歌」と「舞」の要素を戻したらどうなるだろうか、と。それをいわゆる新たな歌舞伎として世に発表しようというところからスーパー歌舞伎は始まっています。
ですから、セリフはほぼ現代語を使いますし、最新のテクノロジーを駆使した衣装、照明、舞台美術であったりしますが、そこに歌舞伎の美意識や、発想、演技術、演出法というものがふんだんに含まれているということです。

スーパー歌舞伎は1986(昭和61)年初演の『ヤマトタケル』を第一作として、『リュウオー』『オグリ』など、上演されるたびにその壮大なストーリーとスペクタクルな舞台が話題を呼んだ。右近はいずれの作品にも主要な役どころで出演するほか、門下の若手俳優を中心に結成された「二十一世紀歌舞伎組」のリーダー的存在として、新作だけでなく古典にも意欲的に挑戦する。
8月末から始まる「松竹大歌舞伎(西コース)」では、古典歌舞伎『熊谷陣屋』の熊谷直実役に挑まれますが。

─僕はこういう男のドラマに非常に弱いんですよ。大好き。男心に男が惚れるとか、男気に惚れるとかね。義心の人っていうのかな、非常にかっこいい男性像だと理解しているんですね。でも話としては理不尽な話、現代ではありえない話じゃないですか。自分の息子の首を代わりに差し出すなんてことはまずないことだけれども、様々な形の愛がある。それが主従、親子、夫婦、いろんな愛があって、それでドラマが起きていると思うんですよね。そういう様々な愛の物語として置き換えるならば、今の人たちにも共感できる話なんじゃないかな。

「型物」として有名な『熊谷陣屋』をどう演じるのかにも興味があります。

─スーパー歌舞伎はどちらかというとテーマ性メッセージ性が強い芝居ですので、心理面が優先される。そこに古典歌舞伎で学んできたセリフ術や形というものがぴったりくっついてこないといけない。
それと違って古典歌舞伎は、たとえば弁慶は「飛び六方(ろっぽう)」しないと『勧進帳(かんじんちょう)』の弁慶って言ってもらえない。やらなきゃいけない「型」があるわけですよ。その型のところに心理をぴたっとくっついてこさせないといけないですよね。
『熊谷陣屋』は諸先輩方が古典の名作にされたわけですから、「型」というものを最も重視してやらなきゃいけないわけです。ただ、そこに心理面をくっつけようとした時にどうなるのか。やっぱり芝居は、自分の過去の体験、体感してきたものの中から局面的に描いていくので、古典歌舞伎も現代性を持つと僕は思うんですよ。なぜなら、いま生きている人間がどういう経験や体験をしているか、その人生を型の中に入れるわけですから。

参考にしたい演技はありますか?

─師匠が若い頃になさっていて、それは基にしたいですよね。それと師匠だけしかなさらない型があります。熊谷は最後は出家して弥陀の浄土へ旅立つのですが、今回は奥さん(熊谷の妻・相模)と一緒に引っ込みます。でもこれはいろんな終わりかたがあって、熊谷一人で引っ込んだり、舞台上でみんな絵面で決まって終わるのもあったり、花道で引っ込みがないのもある。今は一人で引っ込むのが主流になってますが、奥さんと一緒に引っ込みをするのは、僕は一番理にかなっていると思う。だって奥さんも同じように息子を失っていますからね。

そうすると、最後の引っ込みの場面は注目ですね。

─それは非常に注目してほしいところですよ。理にかなっているだけじゃなくて、愛情劇として表現するんだったら、そこは夫婦愛。愛情の形ってのは普遍的じゃないですか。だからまた現代性がそこに描けるんじゃないかな。

今回の巡業では、猿翁が芸術監督を務める京都芸術劇場春秋座でも公演されます。

─まず古典の「型物」の芝居をやるには、本来は不可欠である縦の花道があるっていうのがいいですね。さきほど言った見せ場にあたる熊谷の出や引っ込みがたっぷり使えるから楽しみですね。あと、お客様とのコミュニケーションがあってこその歌舞伎だから、そのとき一回しかない感動の空間を共有するには800席ぐらいっていうのもいいですよね。お客様の息づかいが手に取るようにわかりますから。

これからの目標、いまの思いを語って下さい。

─師匠に今日まで育てていただき、数々の大役やいろんなものを学ばせていただいたので、学びながらそれを惜しみなく次世代に伝えていく、紡いでいくということが自分の使命だと思っています。

「紡ぐ」という言葉がこれまでになく印象的です。

─ない?(笑)そうですよね、学ぶばかりでしたから。でもね、変わったとしたら僕はやっぱり子どもができたのが大きいと思います。歌舞伎をやってほしいですね。「伝えていく」とはそういうことも含めてですかね。だから今回の香川照之さんの襲名でもそうです。初めて歌舞伎の舞台に出られるわけですし。ですから大変おこがましいことだけれども、香川さんの役は僕もやらせていただいたことがあるので、師匠から習ったことをお伝えする。…漠然としていたんですよ、僕。やんなきゃいけないなってことはね。だけど、じゃあ誰に教える?その役をやってくれる人にしか教えられないじゃないですか。できたんですよ、お伝えするターゲットが。香川さんの息子さんに伝えていくこともあると思うし、あるいは自分の息子に伝えていくことがあるかもしれない。これは非常に自分にとってうれしいことなのですよ。

インタビューは六月大歌舞伎の準備であわただしい新橋演舞場で行われた。折しも三代目市川猿之助が二代目猿翁を襲名するほか、市川亀治郎が四代目市川猿之助を、俳優の香川照之が九代目市川中車を襲名し、香川の長男・政明が五代目團子の名で初舞台を踏む幕開けの舞台をひかえていた。澤瀉屋の一員として大きな舞台を支える役目にある右近。彼の身体に蓄積された技や藝は、いま、明らかな方向性をもって光を放つことになるであろう。


インタビュー・文/北見 真智子 撮影/柳 拓行




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