能楽シテ方五流のうち、唯一京都を本拠にする金剛流。 「舞金剛」と呼ばれる華麗な舞、いかにも千年の都、京都らしい雅と奥深さで人々を魅了する。
「昔はよく京都の町を自転車で走っていました。鞍馬に行くときなど川から風が通ってくるのを肌で感じるんです。 昔の人も同じ風を感じたのかなあと思いましてね」。 さわやかな笑顔がはじける。
能には京都を舞台にした曲が多い。 『野宮』『定家』『熊野』『鉄輪』…。 「鴨川の向こうに比叡山があって、そのふもとに鞍馬や貴船がある。僕は京都で生まれ育ちましたので、そういう山や川の距離感や、そこがどういう土地柄かをよく知っています。そうすると、なぜ、この曲がその地を舞台にしているのかがわかるんです。それが京都で能をしていることの良さのひとつですね」
令和元年度の「京都府文化功労賞」を受賞した金剛流の実力派。 受賞理由について、「高い身体能力を生かして、芸の質が『軽い』という自身の特徴を出した魅力的な舞台を創り、高評価を得ている。(略)」と評された。
「二十歳ぐらいのときかなあ。 あるかたから『君の芸風は軽さだね』と言われたことがあったんです。 父は強く存在感のある重厚な芸でしたので、まったく逆だと。 でも軽さもひとつの芸のありかた。 いい意味で力を抜いた軽さ、軽やかさならいいですね。 それに、いろんな芸風があった方がおもしろいんじゃないでしょうか」
廣田家は江戸・幕末から続く家柄。 祖父は金剛流の廣田弘、父も同じく廣田陛一、母は京舞井上流の井上政枝という伝統芸能の家に生まれ育った。 初舞台は数え年6歳の『花筐』の皇子。
自然に能の道に進んだが、ともに芸の道に生きる両親はまったくほめてくれなかった。それどころか、「もっと頑張りなさい」「もっときれいに」などつねに高みを求め続けた。
「子供ですから達成感がなかったんです。 大人になってから、さすがにこの教育法はいかがなものかなあと思うようになりましたね」と笑う。
自身はいま、小学校五年生の孫、明幸くんに教えている。
「一世代離れているのがいいように思いますね。ほめるところはほめるし、客観的に見ることができますから」
室町時代の能の大成者、世阿弥の言葉に「離見の見」がある。
自身の芸を客観的に見ることができる、もう一つの視点が大切だという意味だが、これを実感した出来事があった。
『土蜘蛛』を教えていたとき、その方がふっと、「退治される土蜘蛛の精ってかわいそうですね」と言った。
「ハッとしました。私たち能楽師は、正確に謡を謡う、型を習ってその通りする、そういう修業を積み重ねてきたわけです。
でも、その方は初めてこの曲を習って、土蜘蛛の哀れさを感じられた。この曲の本質のひとつを言い当てたのです」
また、あるときは知り合いの女性から、名曲『井筒』について、「この曲、好きじゃない」と言われた。 「だって自慢話でしょ」と。
「僕たちは、目指すは『井筒』と思って勉強し、修業してきました。 ところが、僕たちが作り上げたものと、その方が感じられたものは違っていた。 能というのは、そんなふうに、人によって、また、そのときの心持ちや人生経験によってさまざまな見方や感じ方ができる。
だからこそ深いんですよね」
海外公演も多く、ヨーロッパやアメリカをはじめ、アルジェリアなど能の公演があまり行われていない国にも能の魅力を広めてきた。
精力的な活動ぶりで、今年も五月十日午後一時半から京都市上京区の金剛能楽堂で、「廣田鑑賞会能」を開催する。 今年は、『鞍馬天狗』を「白頭」の小書き(特殊演出)で勤める。 桜満開の鞍馬山を舞台に、平家を滅ぼすため、遮那王(明幸)を厳しく鍛える大天狗(幸稔)の姿を迫力ある立ち回りとともに描く舞台。
「明幸が今年で子方を卒業することもあり、ぜひ一緒にやりたかった」と顔をほころばせる。
ただいま六十二歳。能楽師として働き盛りの年代だ。
「私自身は、年齢というものから離れたいと思っているんです。 見た目や肉体は五十歳ぐらいの若々しさ。でも謡に深みやコクがある。 そんな不可思議さを醸し出せたらいいですよね」
金剛流の魅力をその身にまとい、京都から世界へ発信し続ける。
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/後藤 鐵郎
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