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昨年、人間国宝に認定された。金剛流では二人目。さらに恩賜賞・日本芸術院賞も受賞。これまでの能楽界への功績に対して輝かしい栄誉が続く。
だが当人は「なんだか自分に合わないといいますか、不釣り合いな気がずっとしていましてね」と謙虚な姿勢を崩さない。「ただ、能楽堂が現在の地に移転して昨年は二十年という節目の年でしたので、その年に認定をいただけたことは大きな喜びでした」。ようやく顔をほころばせた。
「認定をいただいた以上は見合った舞台を勤めなければならない、それは日々思っていることです」
能楽シテ方五流のうち唯一、京都を本拠にする金剛流。二十六世宗家は堂々たる風格に知性と感性が同居、能楽界を代表するシテ方のひとりである。
昨年の人間国宝の認定書交付式が初めて京都で行われたことに感慨があったという。
「文化庁が京都に移転してきたのを実感しました」と言いつつ、「京都の能楽界は途絶えることなく人間国宝がいらしたのですが、平成二十七年に片山幽雪先生と曽和博朗先生が亡くなられてからいなくなっていたのです。昨年、私とともに同じ京都の狂言方の茂山七五三さんが認定を受けたことで、また京都の能楽界に人間国宝ができてほっとした思いがしております」
京都への思いは深い。文化力の高さも感じている。
「やはり伝統の厚みですね。京都は貴族文化と町衆文化が合わさったところに独自の芸風が生まれたのではないでしょうか。もちろん能が成立したのは室町の武士の時代ではありますけれども、もともとの文化基盤が厚かったのだと思います」
金剛流の特色のひとつは「舞金剛」といわれる華麗で優美な舞。それこそ京都ならでは風土と歴史の上に洗練の度を極めてきたものではないだろうか。
永謹さんも、「安宅」の弁慶のような直面の大曲から、「野宮」など女性が主人公の幽玄な鬘物、「姨捨」のような能の世界では最奥とされる老女物の大曲まで、圧倒的な芸容とすぐれた内面描写で現代の能楽界を牽引し続けている。
昭和二十六年、二世金剛巌の長男として生まれ、平成十年、二十六世宗家を継承した。そんななか、大きな事業は十五年の能楽堂の移築であろう。老朽化に伴い、中京区から現在の上京区の京都御所の向かいという素晴らしいロケーションに移った。玄関を入ったところに併設されたギャラリーなど開かれた能楽堂はコロナ前より観客動員数が増えているという。
能楽師として円熟の域にある。昨年十月、国立能楽堂の開場四十周年記念の特別企画公演で「檜垣」を勤めた。 若い頃、美貌で異性を引き付け、舞の評判も高かった白拍子の女が死後、その罪ゆえに老い衰えた姿をさらし、死後も永遠に因果の水を汲み続けなければならない地獄。さまざまなものをそぎ落とし、澄み切った舞台からは人間の業の本質、そして救いのようなものが見えた。
好きな曲は「定家」や「野宮」のように女性が主人公の鬘物。
「そこに能の本質、本道があるように思います。いわゆる幽玄ですね。また、『定家』にしても『野宮』にしても、主人公は浮かむのか、浮かばれないのか、勤める人間によって解釈はいろいろです。私は、ご覧になる方それぞれの感覚でいいのではないかと思っています。そこに能の深さ、おもしろさがある。ただ、たとえば、『野宮』の場合、私自身は浮かばれる世界に行ってほしいと思いながら勤めていますね」
宗家という流儀を牽引する立場もあり、若い頃から大曲、重い曲を勤めてきた。そんななか、いまだ舞っていない曲のひとつに「関寺小町」がある。一般に、「檜垣」「姨捨」と並んで「三老女」と呼ばれる最奥の曲。長男で若宗家の金剛龍謹さんから「近年、流儀で勤めた人がいないのでやっておいてほしい」と言われているそうだが、「うちの流儀の口伝でしょうが、『一曲残せ』というのがあるのです。根底にあるのは『死んでから舞え』ということ。つまり勉強するのをやめるな、という意味です。それを守るのなら、『関寺小町』は舞わないでおこうかなと思ったり、いや、やっておこうと思ったりしているのです」とのこと。
現在、一般社団法人日本能楽会の会長としても多忙な日々、憂慮しているのは、能楽界全体の若い層の減少だ。
「若い人に能の世界に入ってきてもらいたい。シテ方、三役すべてがバランスよく豊かであってほしい。それは東京をはじめ京都や大阪の能楽界もそうですし、シテ方が五流あるということもそうですね。芸能や芸術というのは多様性が大切だと思っています」
能楽界全体を見渡す目。懐の深さ、芸への厳しさで能の神髄を極める。
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/後藤 鐵郎
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